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主は近い
ピリピ4章4,5節

錦織 博義 師

あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。

 パウロはこの4章4節からは、教会に不協和音が生じないための「処方箋」、教会が調和を保つ秘訣について語っている。

主にあって喜べ
 この手紙の基調をなしているものは「喜び」である。「喜べる」のは、「信じている」からである。パウロはここでは「主にあって」と言っているが、これをローマ人への手紙においては「信仰から来るあらゆる喜び」と言い、またガラテヤ教会に宛てた手紙には「御霊の実は愛、喜び……」と言っている。それは、御霊によってキリストの愛が私たちの内に満たされることによって与えられるものである。それは世俗的、一時的、一過性の喜びではない。この「主にあって」とは、キリストにある権威と力を示す。この力を自分のものにするためには、この主に従わなければならない。
 しかもこの喜びは、「いつも主にあって」である。どこでも、どんな時にも、どのような状況の中でも、「主にあって喜ぶ」のである。

すべての人に寛容を
 ユウオデアやスントケが「寛容」を示すことができたならば、おそらく不協和音は起きなかったであろう。しかも、これはまた、ガラテヤ人への手紙を見ると「御霊の実」であることが分かる。「喜び」も「平安」も「寛容」も同じように御霊の結ぶ実である。
 ある英国の聖書学者は、この「寛容」という言葉を「優しさ」と訳したが、その後「理にかなった」と訳し直した。寛容とは、「あまり厳しいことは言わない」というようなことではない。「寛容」とは、律法に言われていることを崩さないで、しかも許し受け入れることである。

主は近い
 当時の教会には、一つの合い言葉があった。それは「マラナ・タ(主よ、来たりませ)」という言葉であった。彼らは、主は再びおいでになると確信していた。しかし、同時に彼らの中には、主はよみがえり、私たちの身近におられるお方であり、天にお帰りになったが、もう決して私たちから離れられることはない、という確信があった。
 そのように、主はすぐにでもおいでになるお方であると共に、すぐ手の届く所に居られるという意味で「主は近い」のである。この確信が教会に力でもあった。
 主の日は近くなっている。同時に、私たちは1日1日主の御許に行く日が近づいている。主の日のための備えはできているだろうか?備えようではないか!


    
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