心にかけてくださった神
ルカ1章46〜55節
今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう。力あるかたが、わたし大きな事をしてくださったからです。(48〜49)
マリヤは主に目を止め、主を大きくあがめ、期待し、主を喜びました。
1 しあわせなわたし
マリヤは自分のことを「さいわいな女」「祝福されている者」と言います。自分は自他共に認めるさいわいな人だとマリヤは言います。彼女は貧しかったかもしれません。彼女は若く、この先、いろいろな困難が待ち受けているかもしれません。不安がないと言ったら嘘になります。けれども彼女は言います。わたしは幸せ者だ。
私たちはどういう時にしあわせでしょうか。何かいいことがあった、お金が儲かった、病気が治った・・・。でもそういうしあわせはきっといろいろな状況で震われてしまうのだと思います。しかし、まさに彼女は自分がたたえている神様のゆえにしあわせだと言うのです。
2 心にかけてくださった
その神様のゆえになぜしあわせかというと、この神さまはわたしをその心にとめてくださったからです。彼女は自分のことをいやしいはしためと言います。自分には何のすぐれたところもない。彼女は世界の中で全く無名の存在でした。けれども、神さまはこんないやしいつかえめを心にかけてくださった。この「心にかけて」という言葉はわたしの上に目をとめてくださったという意味です。マリヤは主をたたえます。主はわたしをみていてくださった。あの御使いガブリエルがマリヤのところにやって来た時にも、「マリヤ」と声をかけ、マリヤのための良い知らせを伝えてくださいました。主は目をとめていてくださるのです。
3 わたしに大きなことをしてくださった
そしてマリヤは言います。どんなことでもおできになるこのお方が、わたしに大きなことをしてくださった。主は単にマリヤに目を止めていてくださる、見ていてくださるというだけでなく、マリヤに大きな事をしてくださったのです。
主は私たちをもそのお心にとめ、私たちのためにも、大きな事をしてくださいました。本当に小さく、罪深い私たちに目をとめ、私たちのために主イエスを送ってくださいました。私たちを救い、神の子にしてくださいました。
主はマリヤの賛歌をもう一度読み直している私たちに語られます。マリヤだけではない、わたしはあなたのことも知っている。そしてあなたのためにも大きな事をしたのだ。
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