見ないで信じるしあわせ
ヨハネ20章19〜31節
信じない者にならないで、信じる者になりなさい。(27)
先週はイースターのの日の夕方、トマスを除く弟子たちが集まっているところに主は現れてくださって、「やすかれ」と声をかけてくださいました。恐れに捕らわれていた弟子たちに、「平安!」と語ってくださって、「あなたがたを遣わす」と語られたのでした。
しかし、そこにトマスはいなかった。トマスが帰ってくると、みんなが口々に、主イエスにお会いした、と言っている。けれどもトマスは、自分は絶対信じない、と言うのです。
けれども一週間後、主は再び、弟子たちにご自身を現してくださいました。今度はトマスも一緒です。そして、信じない者にならないで、信じる者になりなさい、と声をかけてくださいました。トマスは言います。「わが主よ、わが神よ」
主イエスはおっしゃいました。あなたは見たので、信じたのだね。見ないで信じる人はさいわいだ、とおっしゃいました。
1 さいわいだ
この「さいわい」というのは、幸せだ、ハッピーだ、というより、祝福されている・・・ということです。しあわせだ、神様の祝福があなたに注がれている。あなたには命が、永遠の命が与えられている、と聖書は語るのです。
2 信じる人
さいわいなのは信じる人です。それはイエスを神の子キリストと信じることです。主イエスは確かに十字架にかかって死んでくださって、三日目によみがえってくださった。そしてこの主イエスこそが、神の子キリスト、私たちの救い主だと信じることです。
3 見ないで信じる
パウロは言います。見えるものは一時的、見えないものこそが永遠に続く。確かに目では見えない、でも、目はそんなに確かでしょうか。主は御言の約束を与え、聖霊をもってそれを保証してくださいます。これほど確かなものはないのです。
確かめて、納得して・・・信じる、というのもよいでしょう。ただ主イエスは、見なくても、確かめなくても、信じてほしい、と待っておられます。そして、このトマスも次からは見ないと信じないではなく、見えていないけれども信じる生き方に変わっていったと思います。
今日も主は「やすかれ」と私たちのただ中に立ってくださいます。主に信頼して、信じて生きるものでありたいと思います。
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