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あなたの罪はゆるされた
マルコ2章1〜12節 安井 聖 師 (西落合教会牧師)
イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。(5)
主イエスは問われました。「中風の者にあなたの罪はゆるされたというのと、起き上がって家に帰れというのとどちらがたやすいか」。罪をゆるすのと、病気をいやすのとどちらが重要なのでしょうか。
罪のゆるしは大事ですが、同時に、私たちはいろいろな願いをもって神様の前に立ちます。なぜ、主イエスはこのようなことを聞かれるのでしょうか。この主イエスの問いかけは、私たちの信仰の急所を突いています。
神にゆるされて神とともに生きるという恵みに生きるということが大切なのか、それともいろいろな問題が解決することが大切なのか。一生懸命祈りながら、私たちは往々にして、結局自分が中心になっていないでしょうか。
私たちの信仰の真ん中には誰がいるでしょうか。主イエスは中風の人を見て、「あなたの罪はゆるされた」と言われました。それに対してパリサイ人はカチンときた。罪をゆるすことができるのは神だけだ。罪のゆるしと病のいやしとどちらが重要か。律法学者たちも罪のゆるしの方が重要だということは当然理解していたことででしょう。けれどもそうだとしたら、なぜ今、あなたがたの前で起ころうとしている、罪のゆるしという恵みを喜ぼうとしないのか、主イエスはそう問われるのです。律法学者たちは、罪をゆるすのは神だけだと言いながら、それを決めるのは自分だとしました。
自分を見ることをやめて、ゆるしを与えてくださる神を見上げることが大切です。イザヤ書43章25節には、「わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者だ」とあります。あなたの罪のゆるしは、わたしの問題だ、とおっしゃるのです。それはそれほどまでに神が私たちを大切にし、愛しておられるからです。私たちの罪がゆるされる、ここで大事なことは自分を見ることも忘れて、神を仰ぐことなのです。
この男の人は4人の友人に連れて来られました。イエスはこの病人ではなく、4人の友人たちの信仰をご覧になった。今、私たちも、ただ主イエスのあわれみのゆえに主の前に立たされています。「信仰」と言いながら、私たちは自分ばかり見ていたりする。恵みをもって私たちを受け入れてくださる神を見つめましょう。いつもここに連れてきていただいて、ああ、主イエスはわたしをゆるしていてくださるという、恵みの中に立っていきたいのです 。
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