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完成を目指して
ピリピ3章12節・創世記5章21〜32節

錦織 博義 師

わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。(ピリピ3章12節)

 使徒パウロは、自分は「すでにそれを得たとか、すでに完全な者になった」とか、言うのではなく「ただ捕えようとして、追い求めているのである」と言っている。私たちの信仰生活も、晩年になっても、常に向上を目指すべきである。

パウロはどういうつもりで、こう言ったのか?
 彼は信仰生活によって、どうしても得たいものがあった。ここに「完全な者」という言葉があるが、「完全」という言葉は、充分に成熟したものという意味である。それは独りの人間として欠陥があるのではなく、完全な人間であるが、まだ十分に成熟していないということである。  イエス・キリストを信じることによって、その基礎はできている。だから、それを自分の怠慢の口実にしてはならない。

追い求める理由
 なぜそんなに真に追い求める必要があるのか?
@「救いの喜び」を知っているから
 自分はこれによって救われていることを知っているとすれば、何とかして救いの喜びを知り尽くしたいと思うのは、当然のことである。
 主イエスは、信仰というものは高価な真珠を見つけた人が、是非それを手にしたいと、自分の財産をみな売り払って買い取るようなものだと言われたことがある。信仰の喜びを知っている人は、それを確実に自分の物にするために、あらゆる努力するのである。
A信仰の妨げがあるから
 この世は罪に支配されている。神に従って行くためには、戦いがある。多くの困難がある。だから、何もしないで信仰生活を完成することはできない。使徒パウロほどの人であっても、自分の救いのためには「自分のからだを打ちたたいて服従させる」と言っている。私たちは、自分の信仰生活のためにどれだけの努力をしているだろうか?

完成を目指す根拠
 使徒パウロは「そうするのは、キリスト・イエスに捕えられているからである」と言っている。キリストは進む方向まで決めて、後ろからしっかりと捕まえていて下さるのである。つまり私たちの足取りもしっかりせず、方向さえも自分で分からない時もあるが、キリストは私たちをしっかりと捕まえ、目標に向けて下さる。私たちは行く先の分からない旅人ではなく、天に向かっての巡礼者である。完成に向かって、完成を目指しての旅なのである。


    
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