小さくても信仰
マタイ17章14〜21節
よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。(20)
あなたはどのくらいの大きなの信仰をもっているのでしょうか。主イエスは、もしそのからし種一粒ほどの信仰があったら、この山にここからあそこに移れと言えば、移る、とおっしゃったのでした。では、からし種一粒ほどの信仰とはどのような信仰なのでしょうか。
1 生きた信仰
からしだねは小さな小さな種です。しかし、たとい小さかったとしても、砂粒とは違う。そこにはいのちがあります。ヤコブは生きた信仰と死んだ信仰という中で、死んだ信仰というのは、口先だけの信仰、生きて働かない、具体的に実を結んでいかない信仰と言いました。それは信仰が実を結んでいかない、そのような信仰です。どんなに小さくてもいい。そこにいのちがあったらきっと芽が出る、葉が出る、茎が伸びて、花が咲いて、最後は実を結ぶ。それが信仰なのです。
2 山を移す信仰
確かにこの場面で、主イエスは、山を見ながら、「この山に向かって・・・」とおっしゃったことでしょう。ただ同時に「山」は時に、私たちの前に立ちはだかる困難を意味したり、またなかなか変わらない、動いていかないものを象徴するものとして用いられます。いのちのある信仰はどんな困難も、またあきらめたくなるような状況をも変えていくのです。
3 神に信頼する信仰
あなたがたにできないことは、何もないであろう・・・びっくりですよね。できないことは何もない。いや現実的にはできないことだらけだ。でも、ここで主イエスがおっしゃったからし種一粒の信仰とは、確かに小さいけれども、大きな神様に頼る信仰です。信仰の大きい小さいは問題ではない。私たちの信じるお方は力があるからです。だからあなたにできないことはない。私にそのようなスーパーパワーが与えられると言うよりは、できないことは何もない神に信頼するのだ、ということなのです。
不信仰な曲がった時代、とイエスさまはおっしゃいました。今も、主イエスは救い主として、私たちの前に立っていてくださいます。あなたの救い主として、このお方にすがってください。このお方に信頼してください。あなたを救い、あなたを助けることがおできになるからです。
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