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恵みによる価値の転換
ピリピ3章1〜8節 錦織 博義 師
わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。(8)
パウロは主イエスと出会う前の自分を思い出す。パウロは、信仰に入るまでは教会の迫害者であった。しかし、実は迫害の最中に、彼は主イエスにお目にかかったのである。「キリストを知る」ということは彼に「価値転換」をもたらした。自分にとって大事だと思っていたもの、それまで「大切だ」と思っていたものが、自分にとって不利益なもの、否「損」でさえあることに気づいた。
信仰生活の基本である
パウロはキリストを知った事によって、重大な変化が自分のうちに起ったのである。旧約聖書以来この「知る」という言葉は、夫婦が知り合うという意味に用いられているというが、大変親密な知り合い方であるということである。これをパウロは経験したのである。
キリストを知るとは? Iペテロ1:8
ここでペテロは「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している」と言っている。それよりも大事なことは、今信じているかどうかである。「現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きに満ちた喜びに溢れている」かどうかである。それは言葉を変えて言うならば、「キリストのうちに自分を見い出すこと」である。キリストが私たちを変えて下さり、キリストのうちに置いて下さったのである。
神に信頼することである
パウロには、大切なこととして守ってきた三つがあった。まず「割礼を受けること」であり、次に「血筋」であり、最後は、彼の人間としての「熱心さ」であった。そういうものは皆、私たちに人間の力、この世の力を信じさせるものである。私たちは神によって造られ、神に背を向けていたのに「恵み」によって救われ、生かされている。だのに、私たちは神に世話になるのが嫌である。神の助けは得たいが、それは自分が必要とした時に、ある特別な時だけに助けて頂きたい。自分は多くのことで神の助けを求めながら、神の恵みによって生きる、神に頼り切って生きるのは嫌なのである。そこに私たちの傲慢さがある。だから、いつもは神のことは考えず、自力で生きていると思い、困った時だけ神を利用する。ところがキリストによって救われて、神の恵みのすばらしさが分かって来ると、自分の頼って生きてきたことが、実に無力であった事に気がつく。そして、「神に信頼すること」が、どんなにすばらしいことであるかが分かるのである。
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