キリストを知る喜び
ピリピ3章7〜11節 錦織 博義 師
永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストを知ることであります。(ヨハネ17章3節)
日本にはクリスチャンが少ないと言われます。しかし、本当のキリスト者が町に1人いるなら、その街のために大きな働きをします。神は、大勢の人たちよりも、1人がどうであるかを、見ておられるのです。
ローマ帝国の中に、強力な宗教運動がありました。それは「グノーシス(知識)」と言い、「知る」ことを非常に強調する勢力でした。彼らは、「キリストによる救いなどというものは、自分たちの「グノーシス」に比べたら、物の数ではない、というのでした。
そこでパウロは、ピリピの教会員に、「本当の知識はキリストを知ることではないか」と言うのです。
キリストを知ること
「キリストを知ること」は「キリストを信じること」であり、また「キリストを愛すること」です。それは、十字架につけられたイエス・キリストを知ることです。キリストを知りたいと思うならば、十字架を見なければならないのです。
復活の力を知ること
イエス・キリストの復活は、ただ「死」を爆破するだけではなく、人間を奴隷にしている罪の力をも打ち破ってくださいました。
人は何度も新しくなりたいと思うか知れません。けれどもなかなかそれができない。ところが幸いなことに新約聖書は、イエス・キリストの十字架と復活を信じ受け入れるならば、新しい生活に入ることができると約束しています。私たちと神との関係が変ることによって、自分のうちにあるものは全く新しくなります。その力は、神の力、イエス・キリストの復活から来るのです。
キリストの苦難にあずかる
パウロは、コロサイ教会への手紙で次のように言っています。「わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストの体なる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている」。弟子たちは、福音を伝えるために、そして一人でも多くの人々が福音を受け入れるために、どんな苦難をも甘んじて受けたのです。それがこの「その苦難にあずかって」と言うことです。
サタン・悪魔は、一度福音を信じて神の許に立ち帰ったクリスチャンたちを、何とかして引き戻そうと躍起になっている。だから、生涯神に仕えようとする者たちとの間に摩擦が生じる。それが試練であり、クリスチャンの戦いです。しかし、イエス・キリストは今日もご自分の方から、私たちと苦楽を共にしようと手を差し伸べていて下さるのです。
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