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永遠の命に至る水
ヨハネ4章1〜29節 安井 巌 師 (陣馬高原教会牧師・教団次世代主事)
イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。 (13〜14)
主イエスは疲れを覚えられた。それは、肉体的な疲れであると共に、パリサイ人たちの無理解からくる魂の疲れであった。主イエスは、井戸のそばに座ってのどの渇きをじっと耐え、弱さを覚えられた。主イエスはご自身の弱さを持って私たちを尋ねてくださるのである。
サマリヤの女は、誰もいない時間帯に人目を避けて、町から離れたところにあるヤコブの井戸に水を汲みにくる。主イエスはその弱さを持って、差別と偏見と憎しみの壁を超えて、声をかけられた。「水を飲ませてください」。この主イエスの語りかけは、この女にとって驚きでありつまずきであった。しかし、そこで主イエスとの命への対話へと巻き込まれていく。私たちが神の言葉の聖書を読むときにも、まず最初は、疑い、反発、問いであるかもしれない。しかし、そのようにして、聖書の言葉に触れていくときに、思いもかけないかたちで真理が示されることがいかに多いことか。
主イエスとサマリヤの女の対話にはズレがある。しかし、それでもどんどんと話を進めていかれる主イエスに対して、女なりの理解と受け止めの中で、ついに、主イエスが差し出す永遠の命に至る水を、「わたしにください」と求めるまでに変えられる。その時、主イエスは女の問題の核心部分に触れられる。「夫をここに連れてきなさい」。結婚という最も祝福された出来事が、女にとって大きな重荷、魂の深い渇きとなっていた。主イエスはその女の状況を何の評価も与えないかたちで言い当てられる。そのとき女は自分の求めは父なる神を礼拝することにこそあることに気づかされる。私たち人間は、創造者である神のもとに憩う時、初めて満ち足り、まことの平安を得る。そして、私たちが神に憩う場所、それが礼拝である。礼拝を通して、神の愛から自分の人生を始めることこそ、私たち人間の最も自然な姿、健やかな生き方である。そのようなまことの憩いを与えるために主イエスは来られ、十字架上で「渇く」という言葉を持って、まことの渇きを経験し、私たちに永遠の命の湧き水を与えてくださった。サマリヤの女は、永遠の命に至る水を自覚的に与えられた時、水がめを主イエスのもとにおいて、町に出て行って自分の姿を人々の前に晒し、喜んで福音を宣べ伝える者へと変えられたのである。
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