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神に受け入れられる恵み
ピリピ3章7〜11節

錦織 博義 師

律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。(9)

 この個所に、「義」という言葉が三回出てくる。第一は、「律法による義」。第二は「キリストを信じる信仰による義」。第三は「信仰に基づく神からの義」ということである。

自分の努力による義(救い)
 これは「自分は正しいと思っていることだ」と考えればいい。考えてみれば、誰でも「自分は正しい」と思っている。だからあらゆる場面で「自分は正しい」と主張する。
 何もかもご存じの神の前に出て、なお「自分は正しい」と言えるだろうか。神の律法を守るというのであれば、「完全」に守らなければならない。また、自分は律法に求められている事を守っているということで、神に対して誇ることがある。神が最も嫌われることは、「自分は皆できる」と誇ることである。私たちには「ふつつかなしもべです」という謙虚さが必要である。

神からの義(救い)
 これは神からの義、神がこの正しくも何でもない人間を正しい者にして下さるという「正しさ」である。神は人を愛しておられる。神は自分の正しさは少しも曲げられないが、私たちが心から悔いて「赦して下さい」と神の前に出るならば、すべてを赦して下さる。キリストの十字架という代価を払い、罪を赦す道ができているからである。「まあ、仕方がない奴だなー」というのではなく、完全に正しい者のように見て下さる恵みが、十字架によってもたらされている。これは私たちが造り出したものではない。だから「恵み」である。

キリストへの信仰による義(救い)
 このような神が与えて下さる「正しさ」を、いつ、どうして自分のものにすることができるかということである。神が御子イエス・キリストを十字架につけることによって、救いを提供して下さった事を信じ受け入れることである。
 私たちが偉くなるのではない。むしろ、キリストを心から信じている人は、自分のうちに何もないということを最もよく知っている人である。ただキリストにだけ救いがある。自分はどう見ても、とても神に喜んで頂けるようなことはできない。だから神がして下さることだけをして頂いて、それで安心しようとしている人が信仰生活をする人である。「資格」があるとするならば、それはキリストが自分の救い主になって下さったということだけである。



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