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あなたはわが目に尊い
イザヤ43章1〜7節 錦織 博義 師
あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える。(4)
神は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われた(新改訳)。
「尊い」というのは、「かけがえのない。二つと存在しない」ということである。神さまがこの私に目を留めて、神の子にして下さった時、私の代りになる人は独りもいなかった。「私なんか」と思うかも知れない。「自分よりも、ずっとすばらしい人がいる。私よりも、あの人を神は選ばれている」と思うかもしれない。しかし神は、「そんなことは絶対にない」と言われる。「あなたは、私にとってかけがえのない者、重んじる者、誇りとする者」と、神は私たちを誇って下さるというのだ。神が、私たちを誇りになさる。私たちのような者を、千々万々のみ使いの前に「これが私の血という代価を払って買い取った『〇〇』だよ。どうだ、見てごらん」と誇られるというのである。
神の愛は代価を払って贖われたことによって証明される
聖書では、神の民のことを「あがなわれた民」と言っている。神は私たちを救われる時、イエス・キリストの命という代価を支払って、私たちを自由にして下さったのである。私たちは、元来神に造られたたものである。しかし罪を犯して、「罪」という主人の元に売られてしまっていた。けれどもこの神は、イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、御子イエス・キリストの血潮、すなわち、命の代価を支払ってもう一度買い戻して下さったのである。代価が支払われるのは、それだけの価値があるからである。神が私たちを愛して下さるのは、私たちには傷つけられたとはいえ、神の像が刻まれているからである。私にため、あなたのために、イエス・キリストの命が支払われたのである。
神の愛は、どんな時にも神が共におられることによって証明される
ここにある「水」「川」「火」「炎」等は、「危機的な時にも」ということであると同時に、「危機的な時にこそ」ということである。私たちは、愛する者とは、いつでも、いつまでも「共にいたい」と思うものである。それが愛である。
神は、自分の命まで投げ出して、あなたを救いたいのだ!そして、それを既に成し遂げて下さっているのだ。今あなたが、私がなすべきことは、そのようにして成し遂げて下さった救いを素直に受けたることなのだ。それは今日!
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