キリストの日までに完成なさる神
ピリピ1章3-6節 錦織博義師
あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。(6)
パウロは獄中から、「わたしの神に感謝する」とこの手紙を書いた。それを念頭に置きながら、ここから三つのことを考えてみたい。
感謝
彼は「あなたがたを思う度ごとに」感謝するという。ピリピの教会は決して問題のない教会ではなかった。思い出す度ごとに感謝するのは、彼らの信仰的な熱心や模範的な信仰生活の故ではなく、キリストに連なる結びつきのゆえである。そして、彼らが自分にしてくれたことは、自分が偉いからでもなければ、自分が困っているからでもない。これは「神への供え物」なのである。だから、「神に感謝しないではおれない」と言うのである。それは目の前の損得ではなく、神が喜ばれるかどうかであると言う。
祈り
パウロはピリピ教会のために祈る時は、「いつも喜びをもって」祈ったと言う。ここに私たちを圧倒するような秘密が秘められている。それは、パウロは「ピリピ教会」のために祈っているということ、「他人のために」祈っているということである。
その人のために祈るようにならなければ、自分の親切や愛の行為も本当に虚しい。なぜなら「人を愛する」ということは、自分のすべてをその人のために渡してしまうことである。愛は真にその人のために神に祈ることができるまでは、本当にならない。
信頼
私たちの信仰生活は、強くなったり弱くなったり、熱くなったり冷たくなったりすることがある。ところがパウロは、「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成してくださるにちがいない」と言う。
この内容は、私たちの信仰生活全体を言い表している。あなたが自分で悔い改めて信じたと思っているかもしれないが、実はそうではなく、「神があなたがたのうちに良いわざを始めて下さった」のである。神があなたがたに信仰を与え、喜びを与え、祈ることを教えて下さったのだ。そのようにして下さった神が、キリスト・イエスが再び来られる日までに完成して下さる、それを「確信している」という。
信仰のすべては神が始め、神が完成して下さる。ここに神に対する「信頼」がある。しかし、その信仰さえも、神が与えて下さるのであり、神が完成して下さるのである。
この「感謝」と「祈り」と「信頼」の三つが一つになった生活からだけ、堅実な信仰生活が生まれてくる。
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