わたしにあるものをあげよう 使徒行伝3:1-26 錦織学師
金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。
ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。(6)
ペテロは「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう」と言いました。
対症療法ではなく根本的な解決を
この男は生まれつき足が不自由でした。ペテロとヨハネが「私たちを見なさい」と言った時に、彼は、当然、何かもらえるだろうと思ったでしょう。しかし、ペテロが与えようとしてたのは、もっとすばらしい、根本的な解決を与えるものでした。
お金は確かに助けになります。しかし、彼が癒されて歩けるようになることはもっと根本的な問題の解決でした。しかし、それだけではない、この人は内側から変えられ、神様を賛美する人にされた。私たちは、もっと深いところに魂の問題があるのに、対症療法でしのいできているのではないでしょうか?私たちの心の空洞は神様しか埋めることができないのです。神様の元に帰る、という根本的な解決をしなければ、どうにもならないのです。
その私たちの根本的な問題を解決するために、神様はイエス・キリストをこの世に送ってくださいました。私たちと神様との間で邪魔になっていた私たちの罪を、イエスさまがあの十字架の上で背負ってくださることによって、私たちと神様との関係を回復する道を開いてくださったのです。
「信心」ではなく「信仰」
12節にはペテロが「この人が癒されたのはわたしの力や『信心』ではない」と言っています。しかし、16節では「イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、この人を強くし……イエスによる信仰が彼を……癒した」とあります。つまり、「信心」ではなく、「信仰」だと言うのです。
信心と信仰はどう違うのでしょうか?信仰深さ・信心というものは、私たちの姿勢の問題です。どれだけ熱心か、どれだけ敬虔か、どれだけ一生懸命聖書を読んでいるか、どれだけ祈ったか、それが信心です、信仰深さです。それはいつもいつも「私たちの心の状態」に焦点が当たっています。そして、そのような場合は、「熱心さ」が大切になります。いつも焦点は自分です。
でも、ペテロは、イエスに力がある、大切なのはそれに対する「信仰だ」というのです。信仰は「信頼」です。イエスにはその力がある、イエスは彼を立たせてくださる、それに対する信頼なのです。
そして、信頼は勇気です、行動です。
イエスを与えた神の愛が、イエスを復活させた神の力があなたに注がれています。その力をあなたのものとするために必要なのは、ただ、あなたが信頼して、その方にすがることなのです。
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