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転がされていた石 マルコ16章1〜8節
錦織 博義 師
ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。(4)
主イエスさまは十字架につけられ死なれた。イエスさまのからだは、アリマタヤのヨセフらの手で降ろされ、墓に納められた。――当時の墓は崖の岩をくり抜いた横穴式であった。――そこには大きな石があった。
女性たちは、イエスさまに香油を塗ろうと思ったが、あの大きな墓石のことを思い出し、(どうしようか?)悩みながら、墓に向かっていった。というのも、その石は「非常に大きかったからである」とあるとおりである。
ところが、近づいて、ふと「目を上げてみると」「石はすでに転がして」あるではないか!
イエスさまは死を打ち破って甦られた。イエス・キリストの甦りは、この大きな石がすでに転がされていることに象徴されている。
私たちの上にのしかかっている最大の石は、「罪」である。これは私たち自身でも、他人の手を借りてもどうにもならない。悪魔は罪を犯させるまでは、「大したことはない。みんなやっている。一回だけでいいじゃあないか」と言って来るが、一度犯すと「お前罪を犯したではないか!」と責め立ててくる。時には忘れている時もあるが、何かあると頭をもたげ、あなたを責め立ててくる。どんなに忘れようとしても、どうにもならない心の痛みである。しかし、イエス・キリストの甦りによって、その石はすでに転がされているのだ。
「神のさばき」という石もある。罪を犯した場合、単に良心の呵責にさいなまれるだけではなく、神のさばきがあるのだ。この石は私たち上の重くのしかかっている「死」という石であるが、それが、イエス・キリストの十字架のよって全く処理され、「すべてが終わった」と言われた時、私たちの救いは完成したのである。目を上げて見てごらん!石はすでに転がされているから……。神さまはイエス・キリストの十字架が私たちの救いのために充分であったことをお認めになり、三日目に甦らせられたのである。石はすでに転がされたのである。
福音は、「目を上げて見たら、すでに」ということである。私たちが「罪の赦しのために何をしようか?」というのではない。
私たちのできなかったことを、主はなして下さったのだ。主は勝利を得て下さったのだ。「目を上げて見ると」。人間的な常識から「目を上げて」見ようではないか。石はすでに転がされているのである。心配する必要はない。すでになされているのだ!
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