心の清い人 マタイ5章8節
心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう。
心が清いとはどういうことか、私は心が清いかと問われると、正直に言って少々不安になります。でも同時に、私たちは心がきよくありたいのです。
1 神を見るさいわい
心の清い人は神を見るというのですが神を見るとはどういうことでしょうか。
@神を知る・・・それは神がどのようなお方かを知るということです。聖書は言います。神がおられる。この神は世界を造られ、私たち一人一人を造られた。神は私たちを目的をもって創造し、そして、造られた私たちを愛していてくださっているのです。
A神を認める・・・その神を単に知識として知っているだけでなく、私たちの具体的な生涯の中で認めると言うことです。このお方がいらっしゃって、今、私の生涯の中にも働いていてくださっているのです。
B神と向き合って生きる・・・神を見る、というのは神と顔と顔を合わせ、神と向き合って生きるということです。神との慕わしい関係の中に生きると言うことです。
Cやがて神にお会いする・・・神を見るとは最終的・究極的には、神とお会いするということなのです。その日には顔と顔を合わせるようにして神とお会いするのです。
2 心がきよいとは
心がきよいとはどういうことでしょうか。
@罪や汚れから離れている・・・神は罪や汚れを悲しまれます。そして罪や汚れを抱えたままでは私たちは神を見ることはできない。罪から離れることです。罪をかかえたままだと、私たちは神から目をそらすようになってしまうのです。
A生き方だけでなく、見えない部分がきよい・・・神は私たちの心の中をごらんになります。それは動機の部分でもあります。私たちの心の中に何があるかです。
3 心がきよくなるために
神さまはあなたのためにきよい心を、きよい歩みを備えてくださっています。ダビデは若い頃から神さまに用いられ、また神を賛美しながら歩んできた人です。しかし、彼は非常に大きな罪を犯した。彼は非常に苦しみます。最後に彼は自分の罪を告白し、神に悔い改め、そして祈るのです。わたしのために清い心を造って下さい。
そしてあなたをきよくするために、主イエスは十字架にかかってくださいました。心の清い人はさいわいだ。主イエスはおっしゃいます。私がきよくする。あなたが神を見ることができるように、私がするから。
|