信じて帰りなさい ヨハネ4章46〜54節
錦織 博義師
彼は自分に言われたイエスの言葉を信じて帰って行った。(50)
今日は主イエスの一つの奇跡を取り上げます。しかし、二千年前に行われた、しかもユダヤのパレスチナの地て行われた奇跡と、今日の私たちとどういう関りがあるのでしょうか。
1 聖書の奇跡とは
ヨハネは、それは「しるし」であると言います。即ち「救い主のサイン」「救いそのもののサイン」であると言うのです。それはイエス・キリストのなさった奇跡が、二千年前にガリラヤ地方で行われた事件をはるかに超えてイエス・キリストの救いと教えの御業の目で見ることのできる「しるしサイン」であることを意味しています。私たちは聖書を読む時、今の自分に語られた言葉として読まなければなりません。
2 この事件の教える福音的意義
私たちは、あの頃の弟子たちのように、直接主イエスの救いの御業を見ることも、主イエスから直接、聞こえるように「あなたの罪は赦された」「あなたは神の子とされた」「あなたは聖くされた」と言うことを、この耳で聞くことはできません。まして主イエスをこの肉眼で見ることはできない。では、このような制約の中で信仰生活を送らなければならない私たちは、どのような信仰生活を送るべきなのだろうか。それは「聖書の御言に従い、それに命を託して生きる」ということです。
3 事件のあらまし
イエスさまはこの父親に、ただ「お帰りなさい。あなたの息子は助かるのだ。(あなたの息子は治っています)という約束、即ち、お言葉だけをお与えになりました。そしてこの約束、即ち、御言は、この父親に重大な決断を迫ることになります。はるか離れた所にいる息子が、果たしてみ言葉の約束だけで癒されるだろうか?その約束、この御言に息子の命を託すべきか、父親は、今や重大な決断を迫られていました。この父親はどうしたか?イエスさまの約束、御言だけに息子の命を託して帰ったのです。「彼は自分に言われたイエスの言葉を信じて帰っていった」(50)。
4 信仰生活の基本的な在り方
キリスト教の基本は、イエス・キリストの御言、聖書の御言に命を託して生きることです。この御言の確かさ、その権威こそ、ヨハネがこの事件を通して語ろうとしていることです。
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉はあなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば与えられるであろう」(ヨハネ15:7)。「とどまる」とは、「み言葉にコントロールされる」ということです。私たちの信仰生活に当たって、最も大切なことは、この御言に命を託して、信頼して生きることです。御言は、私たちの命を託するに値する神のご意志そのものなのです。
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