私の神に感謝する ピリピ1章3〜6節
わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしに神に感謝する。(3)
「わたしの神に感謝する」というところから、すべてのことが始まっている。「わたしの神に感謝する」というのは、「わたしは神を信じる」とか、「わたしは神を愛する」というのと同様に、一つの「宣言」である。
感謝する神は「わたしの神」
主イエスが教え、天地を創造されたお方であったとしても、本当に神を「わたしの神」として知っているだろうか。
教理としては分かっていても、自分の現実とはなっていないということがある。「神はこの世界を支配しておられる」と言っていても、自分は例外なのである。真っ先に言わなければならないことは、このお方は「わたしの神である」ということである。
神を告白すること
「感謝」という語は「告白」という意味を持っている。「信仰を告白して神を本当に信じなければ、「感謝」することはできない。「わたしの神」と言えなければ、神に感謝することはできない。
では、私たちはどんな時に「感謝」するだろうか?何か自分が得をしなければ、なかなか感謝できない。「得をする」というが、どうして「損」か「得」かが分かるだろうか?それは、自分の物差しで計って決める。他人から見たら違うこともある。あるいは反対に、「あの人はどうしてあんなに喜べるだろうか?」と驚くような辛い境遇にありながら感謝し、喜んでいる人もある。それは、単に気分だけの問題だろうか?辛い立場に置かれたら、やはり辛いに違いない。自分の気分や、損得勘定だけを考えるならば、とても感謝などできない。だのに、なぜ喜んでいるだろうか?それは神が「わたしの神である」と信じることができるからである。
それは神をほめたたえること
これは自分の気分でするのではない。神を「わたしの神」と知っているからこそ、そう受け入れているからこそ、その神を賛美しないではおれなくなる。その神を心からほめたたえ、この神を心から礼拝するから、「賛美」と「礼拝」を切り離して考えることはできない。
ヨブは大きな試みに遭って、財産も子供も一瞬にして失った。その時、こう言った「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主がとられたのだ。主の御名はほむべきかな」と。辛い目に遭えば、「なぜ自分はこのように裸にされたのか。何で、こんなひどい目に遭わなければならないのか」とつぶやく。しかし本当に「わたしの神はほむべきお方である」という信仰があれば、その前に賛美の言葉が出てくるのではなかろうか。今週も「わたしの神に感謝」しよう。
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