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錦織 寛 牧師の礼拝説教の録画映像は、
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道を探し求めて ヨハネ14章1〜6節
わたしは道であり、真理であり、命である。
だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。(6)
私たちが、真っ直ぐ歩いて目的地に行けるのは、「道」のおかげです。それではキリストが道であるとはどういうことでしょう。
キリストは天に通じる道です。英語で見ると「道」=the wayと定冠詞がついています。限定されたただ一つの道だということです。キリストは神から遣わされたお方、いわば天より地に向けて吊り降ろされていた「梯子」です。だから、「だれでもわたしによらないでは、父の御許に行くことはできない」と断定的に言われたのです。
またキリストは人生における「在り方」を示すという意味において、「道」です。日本人は「道」という言葉を好んで用います。本当は、私たちが生きる上においても、「一つの決まり」「人生道」とでも言うべきものがなければならないはずなのに、それが分からなくて、迷うのです。時計の値打ちは一つの決まりに従って正確に動いているかどうかで決まります。神の被造物である私たちも、キリストにその生活の基準を合わせることによって、不安のない迷いのない人生道を歩いていくことができるようになるのです。
「道」とは「方向」を示します。人生とは、よく「旅のようなものだ」などと言われる。重い荷物も行き先が分かっていればこそ、耐えられるのです。キリストは「わたしは、あなたがたが父の御許に行くことのできる道である」と言われました。キリストが指差される方向には、素晴らしい未来の輝きが見えてきます。
「道」と訳されているwayには、「方法」という意味も含まれています。キリストは、私たちが確信をもって幸いな人生を歩み、天にいます父の御許に行くことができるために、その「方法」となって下さいました。
そして、道は本来は踏みつけてできるものです。キリストは事実、私たちのような罪人に踏みつけられて、道となって下さいました。それが、あの十字架です。キリストは、私たちが罪赦されて、「父の御許」に行くことができるために、十字架の上に踏みつけられて、自ら「道」となって下さったのです。
だから、私たちが「父の御許」に行くためには、キリストを十字架に踏みつけ、釘づけてしまったのは、他ならないこの私であることを認めて罪を悔い改め、その十字架によって「道」となって下さったイエス・キリストを救い主であると信じて、この道に従っていくこと以外にないのです。
人生という荒野の中で、「道」を探しておられるでしょうか?もうためらう必要はありません。キリストこそがあなたの「道」なのです。
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