良くても悪くても主に従う エレミヤ42章1〜6節
われわれは良くても悪くても、われわれがあなたをつかわそうとする
われわれの神、主の声に従います。われわれの神、主の声に従うとき、
われわれは幸を得るでしょう。(6)
エルサレムの神殿は破壊され、多くの人々が殺され、またバビロンに捕虜になって引いて行かれました。しかしバビロンの王は、その地にある程度の人々を残し、アヒカムの子ゲダリヤを立てて、残された民を治めさせます。
しかし、ネタニヤの子イシマエルはバビロンによって立てられたゲダリヤを殺してしまったのでした。残された民の中で心あるカレヤの子ヨハナンを初めとする人々はイシマエルを追放するのですが、ゲダリヤは殺されてしまっています。さあ、どうしようか。カレヤの子ヨハナンを初めとして、その地に残された人々は思案します。その時、残された民たちはそうだ、エレミヤに聞いてみようと思った。彼らはエレミヤのところに来て、言います。エレミヤ、私たちはどうしたらよいだろう。神様に祈ってほしい。われわれは良くても悪くても、主の声に聞き従います。主に従う時に、私たちは幸を得るのですから。
十日の後、主の言葉がエレミヤにのぞみます。しかしエレミヤの話を聞いていた人たちは、神様がそんなことをおっしゃるはずがないと神の言葉に従うことを拒むのでした。
1.すばらしい信仰告白
神が何をおっしゃっても従うという決意をヨハナンたちは語っています。自分にとって都合が良くても悪くても、私たちは主に従うのです。主の御声に従うことが一番のしあわせへの近道です。
2.初めから出ていた結論
人は、神に従わないのです。そして、従わない自分を正当化するのです。神はそんなことは言っておられない、と開き直るのです。要は、最初から、民は自分たちの結論を出していました。それは神に従うという姿勢ではなく、神を自分のしたいことをするために利用するに過ぎないのです。
3.神に従うということ
ここで私たちはもう一度神に従うと言うことについて考えたいと思います。それはまず、神の御声を聞くことから始まります。ただそこで大事なのは、神様が何とおっしゃるか、聞いてみてから従うかどうか決めます・・・ということではなく、神が何をおっしゃっても従いますということです。
私たちはこの朝、もう一度、神に従う決断を新たにしたいと思います。あなたに語られる神は、あなたのために幸いを願っておられる神だからです。
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