祝福を受け継ぐ者 ヨハネ15章1〜16節
錦織 博義 師
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そしてあなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るため・・・。 (16)
「お前が選んだのではない。わたしがあなたを選んだのだ」。私たちの伝える福音、私たちの信じる福音は、信じた時に自分のものになったのであるが、神さまの方のお膳立ては、天地に造られる前からであった。
選ばれる神
神さまは天地の造られる前から、私たちをキリストのうちに選んで下さった。そして、ただ、実を結ぶのではない。「いつまでも残る実を結ぶために」、ただ「お祈りをする」というのではない、「聞かれる祈りをささげるような者にするため」である。
実を結ぶために
私たち自身、やがて主の前に立つことになる。そこまで留まる実であるということは、何と感謝であろうか。私たちの先輩を通して、主の弟子たちを通して実を結ばせていただいた。そして、「残る実」としていただいた。けれども、今考えたいことは、私たちが実を結ぶため、残る実を結ぶために、主は私たちを遣わして下さるということである。どれだけ、今日までに実を結んだであろうか。聖書の中には実を結ぶということがいろいろある。「善き業」、「福音の実」、「御霊の実」を結ぶということもあるが、この「結実」ということは、もう一つ別の方面であり、最後の目的ともいうべき最も大切な方面がある。それは「繁殖する」ということである。なるほど、ブドウでもリンゴでも、食用価値のあるものであり、私たちも賞味珍重するのであるが、木の身になってみれば、「実」というものの中心的目的は繁殖であり、それは自然の法則である。それは、私たちクリスチャンの世界においても同じである。あなたを通して、もうひとり別のクリスチャンが生まれる。そして多くのクリスチャンが生まれるということに他ならない。
聞かれる祈り
主イエスさまは、私たちを「聞かれる祈り」を捧げるために選ばれたのである。私たちの祈りは、本当に聞かれているだろうか?祈らせるために、そしてその祈りに答えるために、そしてそこに神のみ業が現れるために、私たちを立てて下さったのである。クリスチャンとは、祈りの器として召されたのであるということを自覚したい。祈ろう。そのために選ばれたのだから。
「祝福は受け継ぐために」受けたのである。主の選びは「実が実るため」であり、「豊かに実る」ためであり、「繁殖するため」であり、また「祈るため」、しかも「応えられる祈りのため」である。
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