あわれみ深い歩みのさいわい マタイ5章7節
あわれみ深い人たちは、さいわいである。彼らはあわれみを受けるであろう。
主イエスが語られた8つのさいわいの5つめあわれみ深い者のさいわいについて見ていきたいと思います。
1 あわれみを必要としている人への感受性
主イエスは悲しみの中にある人のそばに立って、涙を流し、人々が神のことを知りたいと思いながら、誰も教えてくれない・・・というような状況を見ながら、はらわたの裂けるような思いをされたのでした。私たちのまわりにも悲しんでいる人たち、苦しみの中にある人たち、困難の中にあってうちしおれている人たちが、神様のことを知らずに歩みつづけている多くの人たちがいるのです。その人たちを見て、私たちの心は動かないのでしょうか。主イエスが見ておられるように、世界を、人々を見るのです。
2 あわれみを必要としている人に深いあわれみをかけること
それはまさにそこで痛んでいる人の隣人になるということです。主イエスは、よきサマリヤ人のたとえを語られました。あわれみ深いとは、あのサマリヤ人のように近づいていって、介抱し、連れて行って、その人が元気になるまでお世話をする。そこで立ち止まり、近づき、自分のできることをする。それは犠牲を伴うことでしょう。遠回りかもしれない。でも、神が自分に期待しておられることを負っていくのです。主イエスが生きられたように生きるのです。
3 自分があわれみを必要としている者であることを知っていること
主イエスは、彼らはあわれみを受けるであろうとおっしゃいました。ここで、主イエスが彼らはあわれみを受ける、とおっしゃった時、単に、情けは人のためならず、結局は自分に戻っていくるということではなく、自分自身もまたあわれみを必要としていることを認めると言うことなのです。自分は絶望的なほどに神のあわれみがなければ生きていけないということです。
私たちは、神のあわれみをいただいて、はじめて歩んでいくことができる。生きていくことができる。「神のあわれみ」と言った時、そこにあるのは、本来はその罪の故に裁かれ、滅ぼされるしかなかったのに、神様がその裁きを留保し、悔い改めの機会を与えてくださることを「あわれみ」というのです。ですから、この「あわれみ」というのは、まさに「救い」と言い換えることができるような言葉なのです。それだけではありません。私たちは、また多くの人たちの愛とあわれみに支えられている。そしてそんな自分であることを知っているから、なおさら自分もまた人の痛みに寄り添っていくのです。
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