|
 |
錦織 寛 牧師の礼拝説教の録画映像は、
CGNTVにおいて視聴できます。
こちらからどうぞ |
神の聖なる民 出エジプト記19章1〜6節
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから、驚くべきみ光に招き入れてくださったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。 (Tペテロ2章9節)
イスラエルの民は困難に困難を重ねて、荒野の旅を続けてここまできた。しかし、これも信仰の目をもって見るならば、鷲の翼に乗せられるような旅を続けてきたのである。私たちは信仰生活をしながら、この世を歩んでいる。そこには困難もある。しかし、それを神の側から見ると、すなわち、信仰を持って見ると、まさに鷲の翼に乗せられての旅なのである。もし神の恵みがなかったならば、これだけの旅は続けられなかったであろう。
その後に、「あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう」とある。「聖なる民」となることは、「祭司の国」となることであるという。では「祭司の国」となるということは、みんな一緒に祭司生活をする。すなわち、「ともに礼拝を献げる」ということである。私たちの生活が
全部集中され、ここからこの世における生活に力を得ることができ、否、命を得ることができる。同時に祭司の務めは、「献げること」と「執り成すこと」である。
それでは「わが主の聖なる民」とされたとはどういうことか。それは、地のすべての民から、神のものとして選ばれたということである。「聖なる民」ということが大切なことは、私たちが神に選ばれたという点にある。イスラエルの民が神から選ばれたのは、数が多いとか、一番勝れているとか、一番能力があったからではない。何の力もないのに、神は彼らを愛されたのである。そこに、イスラエルの救われた意味がある。これは、私たちにも言えることである。私たちの頼みとするところは何か?何もない。ただ神に愛されたこと、神が約束して下さったこと、そのことだけである。
しかも神は、私たちを「宝の民」とされたというのである。その民が「宝」のように立派であるというのではなく、神の方から言って「これだけは離したくない」というのである。それは私たちにその原因、理由があるというのではない。もし何か資格を求められるのであれば、絶望する他はないだろう。そういう意味で、神がこれだけ大事にしたいと思われる民が、私たちだったのである。しかもその確信は、私たちに根拠を置くのではなく、神にある。それを否定するとしたら、それほど傲慢なことはない。神が「そうだ!」と言われるから、私たちは感謝して、「アーメン!」と信じるのである。
|
|
愛読の友 |
毎日の心の糧に
聖書の一節から
ショートメッセージ
|
|