十字架を負って生きる マタイ27章27〜56節
だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。(24)
主イエスは十字架にはり付けになりました。人々は主イエスをねたみ、主イエスを訴えました。主イエスはまるでほふり場に引いて行かれる羊のように、なされるがままでした。
1 あざける人々--人間の罪の現実
その場面に遭遇する人たちは、頭を振りながら主イエスをののしり、人々の礼拝を導き、また聖書を教える教師たち、民を指導する立場にいる人たちも言うのです。お前は他人を救った。そのことは認めてやろう。でも自分を救うことはできない。今、十字架から降りてみよ。そうしたら信じよう。神に頼っているんだろう。だったら、今、救っていただいたらどうだ。自分は神の子だと言っていたのだから。
それだけではありません。主イエスと一緒にはりつけになっていた強盗たちまでもが主イエスをののしったのでした。地位の高い人々から、卑しい者たちまで、まあ、そろいもそろって、散々主イエスをあざける。ここに人間の罪深さの現実があります。
2 十字架を負われる主イエス
主イエスは全く反論しない。そして、主イエスが口を開かれたとき、マタイは主イエスの言葉を一つだけ記録しています。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか)」。主イエスは十字架の上で本当に見捨てられてくださった、呪われてくださったのです。
聖書は言います、主イエスは自ら十字架を負われた。それは、私たちを愛しておられたからであり、私たちのために救いを成就するためでした。主イエスは降りることもできたけれど、それをされなかった。もし、主イエスが十字架から降りてしまったら、この人たちの、そして私たちの救いの道は永遠に閉ざされてしまうから。だから主イエスは自ら進んで十字架を担われた。主イエスを信じるものたちが救われるという、その大きな喜びのゆえに、どんなはずかしめをも忍んでくださったのです。
3 十字架を負う歩みへの招き
主イエスはかつて、十字架の予告しながら、それに加えておっしゃいました。わたしについてきたいと思うなら、自分の十字架を負ってわたしに従ってきなさい。私たちが負うべき、十字架がある。それは、決して私たちが、楽しいことではないかもしれない。それは十字架だ。重い、痛い、汚い・・・しかし、そこにはあなたを愛しておられる主がいてくださる。あなたも十字架を負ってついていきませんか。それこそが大きな祝福につながる道なのです。
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