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錦織 寛 牧師の礼拝説教の録画映像は、
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ひるがえって生きよ エゼキエル18章30-32節
わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。
それゆえ、あなたがたは翻って生きよ。 (32)
いのちのない生活
聖書はどういう状況を「死」と言うのだろうか?それは、神の戒めを破り、神から離れてしまっている状態である。命の源であるお方と正常な関係にないということは、まるで電源につながっていない電気製品のようなもので、つまり死んでいることなのである。
またそれは主体性のない生き方である。パウロは告白している。「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」(ローマ7:19)。私たちは、自分のしたいこと、したくないことを、自分で自由にできる、と思う。ところが、現実のギャップはなんと大きいことだろう。
また、それは永遠の滅びを意味している。救われていない人にとって、「死」はまさに滅びの確定を意味する。生きながら死んだような生活を送ったあげく迎える肉体的な死は、今度は永遠の死、永遠の滅びであることは悲しいことである。
「いのち」はキリスト
このような、絶望的な死の状況のただ中にあって、キリストは「わたしは命である」と言われる。キリストは、すべて命あるものの源であり、いのちの与え主である。キリストは、ご自分を羊飼いに譬え「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」と言われ、そのために「わたしは……命を捨てる」と言い、事実、十字架に架かって命を投げ出された。
そして、キリストは復活して、永遠のいのちの保証となって下さった。主はおっしゃった。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」。
「いのち」ある生活
聖書によると「御子を持つ者は命を持つ」とある。いのちなるキリストを受け入れる時、その人は生き返る。命なる主がお声をかけて、御手を触れて下さる時、皆生き返るのだ。
キリストの命を持つ者は、生き生きとしたバイタリティーに満ちた生き方ができる。キリストを信じたからと言って困難がなくなるわけではない。しかしパウロのように、「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない」というたくましい生き方ができる。
そして、いのちなるキリストを信じる時、「死んでも生きる」永遠の命が与えられる。
「御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」(Tヨハネ5:12)。あなたは、このいのちを持っているか?
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