慰めの到来
イザヤ40章1〜11節
あなたがたの神は言われる、「慰めよ、わが民を慰めよ」。(1)
イザヤは、イスラエルの民がその罪のゆえに、やがてバビロンに滅ぼされ、捕囚の民とされることを知っていました。けれどもここで、イザヤは神からの語りかけを聞きます。神の慰めの時が来る。それがこのイザヤ書40章からの後半部なのです。
1 わが民を
ここで、主は、この民は「わたしの民だ」とおっしゃいます。イスラエルの民は、もう神さまから捨てられても仕方がなかったでしょう。民自身も、自分の罪を思い起こすと共に、もうおしまいだ、もう自分たちは神の民ではない、神の民と呼んでいただく資格はない・・・そんな風に感じていたことでしょう。しかし、神はイスラエルの民に、それでも私はあなたを見捨ててはいない。あなたは「わたしの民」なのだからとおっしゃるのです。
2 慰めよ
神はイザヤにわが民を「慰めよ」とおっしゃいます。バビロンによって滅ぼされたエルサレムが復興する、捕囚の民とされていた人たちが解放され、帰ってくる。それは罪のゆるしと回復が与えられるというメッセージでした。しかし、それだけではありません。主は究極的に罪のゆるしをもたらすために、主イエスを救い主として送ってくださいました。クリスマスに来てくださった救い主、この主イエスは私たちに慰めをもたらしてくださるお方。主イエスが来てくださった・・・そこから聞こえてくるメッセージは、あなたは見捨てられていない、あなたは神の愛の中に置かれている、あなたの罪はゆるされ、あなたは回復される、と主は言われるのです。
主は大能をもって来られる。このお方は力がある。このお方はあなたの牧者としてあなたを養い、あなたを御胸にいだき、やさしく導いてくださるのです。
3 とこしえに変わらない神の御言に信頼して
しかし、慰めは本当に与えられるのだろうか・・・神さまはおっしゃいます。草も花も人も古くなり、枯れてしまう。しかし、変わらないもの、私たちが信頼しても裏切られないものがある、それが神の御言だ。そして神の御言の通りに神はその御子をこの世に送ってくださり、私たちを救ってくださるのです。
「慰めよ、わが民を慰めよ」。主はおっしゃいます。その御言葉が、またその御言葉が指し示しているイエスさまご自身が、私たちの慰めなのです。
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