キリストの愛の道と宣教
Tコリント13章1〜8節 小川堅宣教師
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。 (4〜8)
コリント教会は、数々の深刻な問題に直面していました。コリント教会の諸問題は、すべて宣教の働きの問題でもありました。たとえば、前の12章には、色々な賜物が列挙されていますが、その違いゆえに様々な問題が起こり得ます。このような問題は、宣教の場でも出てきます。
しかし、神様から与えられる様々な賜物を活かす道がある、それが愛だとパウロは語ります。「愛」は、熱心に求めれば、全ての人に与えられる賜物です。この愛は、人間の自己本位な愛ではありません。全くふさわしくない者に向けられた神様から注がれる愛です。この愛こそが、キリストの共同体とその働きを特徴付け、支配すべき愛なのです。
キリストの愛の欠如の現実(1-3)
しかし、私たち自身とその周りを見渡すと、愛の欠如の現実に向き合わざるを得ません。聖書の語るアガペーの愛、すなわち「キリストの愛」がなければ、虚しいばかりでなく、福音宣教において大きな妨げさえになります。その努力、犠牲、いっさいは無益となってしまうのです。
キリストの愛の性質(4-7)
12-14章の文脈で、パウロはコリント教会の中にあった、妬み、高慢、自己中心に言及しています。真のキリスト者に求められているのは、まず、これらの姿が自分の姿であるという現実に向き合い、認め、そして捨てることです。聖書の語るキリストの愛を本当に体験するならば、自分の権利を主張し続けたり、与えられた賜物を軽蔑したり、兄弟姉妹を妬んだり、無神経で、粗野な扱い方をすることは、決してできません。そして、愛というものは、赦すばかりでなく、忘れます。教会とその宣教の働きは、このような資質が必要です。これなくして、表は素晴らしい働きをなしていったとしてもやがて衰えていきます。
これらの愛の描写は、イエス・キリストの姿を表しています。そして、神様は私たちの内に、その御子の似姿を作り出そうとしておられます。愛の賜物は、永遠に続くものです。これからも共にどんな知識と賜物にも優って、キリストの愛を培う者でありたいと思います。
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