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参加すべき信仰の戦い
ヘブル11章39節〜12章1節
こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競争を、耐え忍んで走りぬこうではないか。(1)
今から77年前1942年6月26日いつものように朝6時早天祈祷会が、今まさに始められようとしていた時であった。当時神田教会の牧師車田秋次師のもとへ突然神田錦町警察からの者であると、刑事二人がやってきて、即刻同行を求めてきた。
一方教会からは洋書は除いて、多くの書籍を勝手に持ち出し前に用意されていた大八車に積み込んで押収していった。その日に逮捕されたのは全国のホーリネス系教会に及び、全国で134名、獄死した者5名、衰弱して出獄後死亡した者3名。裁判にかけられた者は56名。
ところで、弾圧時代を通って来られた先生方を思うにつけ、先輩たちが文字通り命がけで戦って下さったものを完成させるように、その責任を負わされているのは、私たちではないかと思わされる。先生方のご苦労を無駄にするか、しないかは、まさに私たちにかかっているのではないかと、この御言葉を通して思わされてならない。
12章1節には「わたしたちの参加すべき競走」とある。「参加すべき信仰の戦い」と言い換えてもいいだろう。この光景は、リレーや駅伝を連想させる。11章から続く信仰者たちのバトンを受け継いで、新約の信仰者たちがゴールを目指して走り抜くことが期待されているように、私たちで言うならば、弾圧の時代を通過された方々からバトンタッチされ、「さあ、走り抜いてくれよ」と激励されているようだ。
私たちが受け取るべきバトン、受け継ぐべきもの、先輩たちが私たちに手渡そうとしたものは何か?
その大切な一つは、「聖書信仰」である。どうしてホーリネス教会だけがと問われたならば、あえて言うならば、「純粋過ぎたから」としか言いようがない。まさに目に余るばかりの「純粋な聖書信仰」を貫いた、妥協のない、まさに命がけの信仰に徹した証し人をそこに見る。
しかし、そのような現実の中で生きた、輝いた証人に、私たちは雲のように囲まれ、そして「さあ、あなたがたも、この馳せ場を走るのだ」と言われる。このバトンタッチされた信仰を、私たちは何とか受け継いで行かなければならない。「私たちをほかにして彼らが全うされることはない」。私たちには、その責任がある。
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