平安への道
ピリピ4章4〜7節 錦織博義師
何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。(6〜7)
私たちは、どうして思い煩うのだろうか?「思い煩う」という言葉には、「心が分裂する、二つに分かれる」という意味がある。考えが二つに分かれて、その結果、私たちの結論は、多くの場合心配な方である。
思い煩うな
では、なぜいつでも不幸についてしか考えないだろうか。それは、「悪くしかならない」と考えているからである。いつでも「神に愛されている」という確信がない、神の愛を信じ切れない。言葉を変えて言うならば「信仰がない」のだ。そして、「こんなに私には苦しみが多いのに、どうして神が愛であると言えるのか?そんな事はあり得ない」と決めつけてしまう。しかし、大事な事は、神に信頼することである。「確実に私を愛していて下さる神に、自分のすべてを委ねよ」、この事もあの事も、全部お任せすることである。
事ごとに、感謝をもって
もし感謝することができれば、「思い煩う」必要もなくなってくる。思い煩わないということは「自分の考えを捨てて、神の御旨通りにする」ということである。私たちに「良かれ!」と思ってすべての事を考えて下さる神の御思い通りにするということは、感謝以外にないはずである。それは、神のご好意は無限だからである。またそこには偽りはない。だから、「神に感謝する」というのは、神を礼拝するということである。教会で礼拝をするだけではなく、あらゆる場所で神をほめたたえ、神に従い、神に感謝するのである。
祈りと願い
聖書における「祈り」とは、願い事が特別になくても「神さまと一緒にいたいための交わり」である。整った言葉、立派な話と言うだけではない。ため息だけでもいい。泣き言を言い、ただ打ち伏せて泣く時、神は本当に一緒に居られる。それが「祈り」である。
そして、「事ごと」に願うというのは「あらゆる事」であり、体裁のいい事だけではなく、どんな事でもいいのである。そして、祈ったならば、感謝することである。答えがないうちから、答えて下さると信じて感謝するのである。
祈る者についての大切なことが三つある。1.神の愛を信じること。2.神の知恵を信じること。3.神の能力を信じること。
その時に、人知をはるかに超えた平安が与えられる。
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