最後の審判
ヨハネ黙示録20章1〜15節
また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。・・・死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。 (11〜12)
私たちの地上の生涯はやがて終わります。けれども、それで終わりではなく、人は死んだ後裁きを受けることが定まっている、と聖書は言います。最後の審判は聖書がはっきり繰り返し語っていることです。やがて神様の御座の前に立つ日が来ます。神は何に基づいて正しい裁きをなさるのでしょうか。
1 そのしわざに応じて
私たちの地上の生涯は、必ずしもよいことをしていたら報われて、悪いことをしていたらひどい目にあうということではありません。かえって、多少ずるく生きていた方が、得をするように感じるかもしれません。けれども、神が正しい裁きを行い、善に報い、悪を裁いてくださる日が来ます。この世ではある意味、究極的な公平ってやっぱりない。でも主が正しい裁きをしてくださる日が来るのです。私たちがどのように生きてきたかが全部あらわにされる日が来る。私たちは、生きておられる主、すべてを見て、知っておられるお方の前に誠実な歩みをさせていただきたいと思います。
2 いのちの書に基づいて
神様のところには多くの記録がある。数々の書物が開かれた、と書かれています。しかし最後に、もう一冊の書物がチェックされる。それは、いのちの書です。ここに名前がある人は神様の国に入れていただけるのです。それは立派な功績を残した人の名前ではありません。どれだけ有名かでもありません。そこに名前が書かれているのは、主イエスを救い主として信じた人です。あなたがもしイエスさまを信じていたら、あなたの名前もそこにあります。もしまだでしたら、今日、あなたもイエスさまをあなたの救い主として信じていただきたいと思います。
本当は私たちは神様の裁きの座の前に立ち得ない。でも、主は私たちが天の御国に入るためのたった一つの道を開いてくださいました。主イエスの十字架が私の罪のためであったことを信じ、受け入れることです。
主を信じ、主の御前に立つ日を待ち望んでいる者として、よい歩みをしていきたいと思います。
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