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どういう言葉を聞いているか
ルカ16章19〜31節
アブラハムは言った、「彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう」「もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう」。(29、31)
主イエスは14節に登場する「欲の深い」パリサイ人たちにこのたとえを語られました。彼らは、自分たちは律法に従い、慈善活動もし、神に祝福されて当然の生き方をしていると思っていました。
このたとえに登場するのは、遊んで暮らす金持ちと、金持ちの家の門に座り、金持ちの食卓から落ちるもので飢えを凌ぐ生活をしているラザロです。やがて二人は死ぬと立場が逆転しました。ラザロは天国へ、金持ちは地獄へ行くのです。金持ちは地獄の火炎の中で、せめて自分の5人の兄弟たちをこのような苦しみから救いたいと思い、ラザロを死人から生き返らせ、遣わしてほしいと頼みます。けれどもラザロのそばにいるアブラハムは、聖書の言葉に耳を傾けないなら、たとえ死人の中からよみがえった奇跡の人の言葉でも耳を傾けることはないと言いました。
ある牧師は説教の中で、ラザロすなわち「神は助ける」という意味の名前に注目し、まさにラザロは金持ちの憐れみではなく、神の憐れみによってのみ生きた人だったと語っています。そして金持ちもまた自分が神の憐れみによってのみ生きているに過ぎないことを無視していたことが問題だったというのです。
どんな歩みにも神さまの憐れみと助けと支えがあります。私たちもまた神さまの憐れみによってのみ生かされている者たちです。
欲深いパリサイ人たちは、自分たちは祝福されて当然の生き方をしていると思っていました。しかし聖書のみ言葉を聞いてそれに生きようとするなら、律法の通りに生きられない自分に気づき、主の憐れみを求めたはずです。そして自分たちもただ主の憐れみによってのみ生かされていることに気づくはずだと、主イエスはこのたとえを通して語られたのです。
イエスさまは十字架で私たちの罪のために死なれ、死からよみがえられました。頑なだった私たちが今はそのよみがえりを信じていること、それもまた神さまの憐れみのゆえです。だからこそ、私たちはみんなラザロ「神の憐れみによって生きる者」なのです。私たちが今の世を生きるのも、後の世を生きるのも神の憐れみによるのです。
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