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主に知られたるわたし
Tコリント13章8〜13節 錦織 博義 師
わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。(12)
「神を知る」ということはとても大切な事柄ですが、しかし、その前に、実は神が私たちを知っていて下さる、という事実があります。私たちが「神を知る」ということは、実に「神に知られている」という、そのことを知ることに他ならないのです。
しかも、更に驚くべきことがあります。この世界を造られた偉大な神が私たちを知っていて下さると言うとき、私たち一人びとりに心を留め、これをねんごろに知っていて下さるのです。
主はこのような知り方で、名もないガリラヤの青年漁師たちを知り、弟子として用いられました。また、このような知り方で罪ある女性の弱さに同情し、これを責める人々の心にある罪を、突き刺すように指摘されました。主は確かに「すべての人を知っておられ……人の心の中にあることを知っておられた」のです。神は知っておられる。これは恐ろしい真理であり、同時に心強いことです。
パウロは、そのような恐れと心強さを深く経験した人でした。彼は言います。「私たちが神について知るなどということは、実に不完全で、一部分である。私たちが持っているキリストについての知識は、実に部分的に過ぎない。しかし神の方では、今すでに私たちを十分に知っていて下さる。そして、そのことこそが私たちの希望なのだ」と。
私たちの存在が、ただ単に「ここにある」というだけのことで、それを誰も知っていてくれない、誰も関心を持ってくれないとするならば、私たちの生涯において、これほど寂しいことはありません。しかし、ひとたび「知られる」ということによって、私たちの存在には突如として光がさし、意味が生じてきます。
「知られる」ということは、すばらしい事を起します。主イエス・キリストの弟子たちはみな無学な青年たちでした。もし彼らが、キリストに出会いということがなく、キリストによって「知られる」ということがなかったならば、善良な人間というだけで終わったことでしょう。初代教会の担い手として、世界史に永久にその名を記憶されるようなことは、万が一にも起こらなかったに違いありません。
心の扉を開いてください。あなたのどんな深刻な悩みも、深く隠された煩悩も、願いも、そして弱さも、疲れも、孤独も、醜さも、必ず理解して下さるお方がおられ、そしてあなたに必要な解決が、救いの手が差し伸べられているのです。
この「知られている」ということのすばらしさをぜひ知ってください。
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