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神の時を知る喜び
ピリピ4章10節、伝道の書3章1〜15節

錦織博義師

神のなされることは皆その時にかなって美しい。 (伝道3:11)

 「わたしが主にあって大いに喜んでいるのは、わたしを思う心が、あなたがたに今またついに芽ばえてきたことである」とパウロは言う。ここから「信仰による交わり」は、どういうことなのかを学びたい。

主にあって喜ぶとは?
 この手紙は「喜びの手紙」である。それはただ物をもらって嬉しいというのではない。ここでは「主にあって喜ぶ」という。この「主にあって」というのは、「主イエス・キリストに属する者として」ということである。
 信仰を持つということは「キリストに属する」こと、すなわち「キリストのからだの肢体になる」ことである。それは「キリストと切っても切れない関係」に入れられるということだ。
 他人から受けた善意についてその人に感謝するのは当然だが、同時に、主から頂いたものとして、主に対する感謝がなければならない。私たちはいつも、主に対する感謝をもって、謙遜に、慎み深く、また心からの喜びと感謝を表わすのである。

わたしを思う心があなたがたに今またついに芽ばえてきた
 「今またついに」というのだから、しばらくその関係が途絶えていたようである。ここに「芽ばえた」とあるが、これは「花咲く」という語だという。冬の間は<枯れたのではないか?>と思われるような木に、やがて芽が出て花が咲く。
 自分も他人も、まるで「愛の砂漠」に住んでおり、真実な愛を見い出すことが難しい中で、それを見い出したならば、誰でも「今またついに」と言わざるを得ないだろう。
 私たちは愛の生活において、しばしば失望する。花のように咲いたかと思えば、霜に打たれたように萎んでしまう。しかし、お互いに「主イエス・キリストを信じている」ということ、それが裏付けとなって、「あなたの愛が本当に嬉しい」と言えるのだ。

どうしてその花が咲いたか
 「実は、あなたがたは、わたしのことを心にかけてくれてはいたが、よい機会がなかったのである」とある。
 「機会がなかった」ということは、いろいろな事情があったのだろう。しかし、「機会」を作って下さるのは、言うまでもなく神である。
 先に、伝道の書3章1〜15節を読んで頂いた。ここには、あらゆることには「時がある」と言っている。神が時を与えて下さる。神が用意され、神が定められた時に、花が開く。それが私たち、クリスチャン生活の交わりのあり方である。


    
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