走りよる神
ルカ15章11〜24節 錦織 博義 師
まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。 (20)
今日はよく知られている「放蕩息子」のたとえ話である。この放蕩息子の物語は、長男、次男、父親の三人の人物が登場する。
1 次男の不幸
この次男の不幸の原因には、彼を取り巻く町の悪い環境、また飢饉という自然災害もあったが、一番の問題は、次男の自己中心的な考えエゴイズムであった。ここでは、神を無視した生き方を、この放蕩息子に譬えている。神を無視した生き方とは、困った時だけ、「神様、神様」と、遠い所から呼ぶ生き方である。自分勝手な生き方である。何かあると、だれが悪い、かれが悪い、時代が悪いと言い、自分のことについては、何も問いかけようとはしない。その生き方が、この放蕩息子の姿に示されている。
2 次男の方向転換
17節の「そこで」という言葉で話は展開する。次男は最悪の状況の中で、神へと方向転換する。人は誰でも行き詰まることがある。そんな時、だれが悪い、かれが悪いと言っていたのではだめだ。「神様、弱い私を助けてください」とお祈りするのだ。そうすると、私たちはそこで自分の足りなさ、卑しい自分自身を見るのである。そこで、神の前に出るのだ。弟は悔い改めた。「父よ、わたしは天に対しても、あなたに向かっても、罪を犯しました」と、罪を神に詫びている。これはとても大切なことである。
20節に「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、あわれに思って走り寄り、その首をいだいて接吻した」とある。神は私たちに、いつでもどこでも、誰にでも、慈しみの心で目を向け、遠くにいても駆け寄って下さるお方だということを、イエスさまは伝えておられる。
3 新しい生活への再出発
「さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい」(22)。「着物」は、引きずってきたものの象徴である。長い間身に着けていた着物を、神は着替えさせて下さる。
神は、私たちが「我に返り」「本心に立ち返って」、帰っていくとき、喜んで迎えて下さる。今朝「我に返」ろうではないか!主はそれを待っていて下さる!神はどんなに汚れた着物を着ていても、新しい最上の着物を用意していて下さるのだ。
|