主はこの山で イザヤ25章1〜12節
また主はこの山で、すべての民のかぶっている顔おおいと、すべての国のおおっているおおい物とを破られる。
主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全治の地の上から除かれる。これは主の語られたことである。 (7,8)
イザヤがこの預言をしていた時代は暗い時代であり、また、イザヤがどれだけ真剣に神の言葉を語ってもまともに主の言を聞こうとしない・・・ある意味、とても難しい時代でした。そしてイザヤは、ユダヤイスラエルが滅んでしまうことを語らなければならなかったのです。
しかし、イザヤはそのような中にあっても主を賛美します。主は驚く御業をしてくださった。主は世の初めからそれを計画しておられて、そのご真実をもってそれを実行してくださった。神は一体何をしてくださったのでしょうか。この朝は「この山で」という言葉を鍵にしながらこのことを学びたいと思います。この山というのはエルサエムのことです。そしてエルサレムというのは単にイスラエルの都と言うだけでなく、やがて完成する神の都を指しているとも言えるのです。それは天国の生涯であり、また主を信じる者たちに備えられた地上の生涯でもあるのです。
1 祝宴をもうけてくださる
神は私たちのために祝宴をもうけ、そこに私たちを招いてくださいます。主イエスもあの放蕩息子のたとえの中で、放蕩の限りを尽くして帰ってきた息子を迎えた父親がその息子のために祝宴を開いてその帰りを喜んだという下りがあります。主は私たちに最もよいものを備えてくださいます。
2 死を滅ぼし、涙をぬぐってくださる
私たちの地上の生涯には涙することがあり、自分の弱さや罪深さのゆえにはずかしめを受けることがあります。しかし、やがての日、その山で、主ははずかしめをぬぐい去り、涙を拭き取り、私たちの最後の敵・死を滅ぼしてくださいます。
3 私たちの神を共に喜ぶ
そして、その山で、私たちは共に主は、われらの神、と告白し、主もまた私たちを救ってくださるのです。そして私たちはこの神の救いを喜び、救いを与えて下さる神を喜ぶのです。
おわりに
イザヤを取り巻く現実は「祝宴」とはほど遠いものでした。しかし、イザヤは主が約束のとおりに必ず、メシヤを送ってそのことを実現してくださる、と信じていました。そして信じて、神をたたえているのです。主は真実です。そして、私たちは、主を仰ぎつつ、ともに主をあがめるのです。
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