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錦織 寛 牧師の礼拝説教の録画映像は、
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悲しみの道を行くイエス マタイ 27章33〜44節
錦織博義師
まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。・・・
彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 (イザヤ 53:4〜5)
ヴィアドロローサと呼ばれるゴルゴダへの悲しみの道を十字架を負って御旨のままに歩まれた主イエスの姿を見ていきましょう。
これは思いがけない出来事ではなく、私のために御業を成し遂げるために授けられたご計画のままに進まれる主イエスの姿です。この27章の出来事は、旧約聖書の預言の成就でした。これら一つ一つが神様のご計画の中にありました。そして、十字架の死は、崇高なものではなく、人々に何の感動も与えるものではありませんでした。
ただ主イエスのご受難が旧約聖書の成就であっただけではなく、詩篇22、69篇を歌う度に、他人事ではない、自分自身の苦しみ、嘆き、憤りが歌い込まれました。ダビデはまさか主がこの詩篇を引用されるとは思わなかったでしょう。主イエスはこのような経験を通して私たちの苦しみや悲しみを思いやることのできるお方として、人生の矛盾、生きる苦しみも痛みも死の恐れさえも何もかも知り尽くしておられて、全人類の罪を全部背負い贖って下さいました。
神に委ねるもう一つのことは、人々の罵りです。そこを通り掛かった人たち、祭司長、律法学者、長老たちは一緒になって嘲弄しました。その罵りは一点に集中して、「神の子ならばこんなはずはない。十字架から降りるはずだ」ということでした。神の子が十字架につけられるのは、信じ難いのです。もし主が十字架から降りるならば、主イエスの生涯すべてを台無しにするのです。私たちも神の愛を信じないで、思いがけない苦しい時に出会うと、どうしてこんなことが、と言います。今も、十字架につけられた主イエスは君たちを本当に幸せにしたのかと罵るのです。苦しみの中、主イエスを十字架から降りさせなかったのは、手足を貫く太い釘ではなく、この罪深い私たちをどうしても今救わなければならないとの主イエスの愛の力です。主イエスは飢え渇いた魂のニーズ、どうしようもない私たちの罪を償い、死の恐れを取り除いて救うために、十字架上で死の代価を払われました。十字架から降りることはできたでしょうが、それをしてしまったら救いの成就はなかったのです。自分を救わずに十字架で死に、罪人であった私を救って下さった主イエスの救いを心から受け入れて歩んでまいりましょう。
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