わたしの家は祈りの家 マルコ 11章15〜18節
そして彼らに教えて言われた、『わたしの家は、すべての国民の祈りの家ととなえられるべきである』と書いてあるではないか。(17)
主イエスが受難週にエルサレムに入られたときに、神殿の中で商売をしていた両替人やはとを売っていた商売人たちを追い出されました。それは・・・
1 強盗の巣ではない
最初は、人々が礼拝を献げる、そのサポートをする・・・ということだったのかもしれません。しかし、悲しいことですけれど、神を礼拝する、そのことの中にいつの間にか、混ぜ物が混じり込んで、自分の欲が紛れ込んで、教会までもが自分の欲望の満足の場、自己実現の場になってしまう・・・私たちは心したいと思います。
2 わたしの家
どんな見事な神殿も、神をお入れすることはできません。神のきよさ・大きさをあらわすにはあまりにも小さいのです。しかし、神は、祭司長や律法学者たちがうごめいているこの神殿を、「わたしの家」とおっしゃる。知ってください。教会は神が「わたしの家」とおっしゃる場所なのです。
3 祈りの家
主イエスは、ここは祈りの場だとおっしゃった。教会はまさに祈るところです。祈りとは何でしょうか。それは神の前に出ることです。神とのコミュニケーションです。神のお声を聞き、また神に対して語ることです。
ここは祈りの積まれた特別な場所です。ダビデ、ソロモンの時代にそこに神殿ができました。さかのぼっていくと、そこはダビデの悔い改めの場、アブラハムがその子イサクを献げた場所だったとされています。
私たちのこのチャペルもそうです。私たちはこの場所で多くの先輩たちが祈りをささげてきたことを知っています。ここで多くの聖徒たちが祈りをささげ、そのような祈りの中で、私も救われ、教会につながったのです。そして神は私たちもこの場所で神に祈ることを待っておられます。
4 すべての国民のための場所
イエスが引用されたのはイザヤ書の56章の引用です。そしてこのところにあるのは主の救いが異邦人にも及ぶというメッセージなのです。商売人たちが商売をしていたのはいわゆる異邦人たちが祈ることのできる場所、異邦人の庭と言われる場所でした。その異邦人たちの礼拝の場が、祈りの場とはかけ離れた場所になってしまっていたのです。知ってください。いつの時代、どこの国の人であっても、またどんなに弱い人、小さい子どもの祈りでも主は聞いてくださるのです。
|