キリストの僕 イザヤ53章3〜8節
錦織 博義 師
人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分のいのちをあたえるためである。 (マタイ20:28)
「キリスト・イエスの僕」というのはあまり聞き慣れ、特別な感情を抱かないかもしれません。しかし、この手紙は獄中から書かれていますが、それも彼らは特別視していないようです。
1 「イエス」という名
当時も「イエス」という名は、多く使われていたようです。ですから、パウロは私たちと同じ「人間イエス」を描きたかったかもしれません。まさに罪は犯されませんでしたが、私たちと同じ試練に遭われたので、「私たちのことをもよく理解しておられるよ」と言いたかったかもしれません。そのことについては、イザヤ書53章が示しています。
2 「キリスト」ということ
「キリスト」というのは「救い主」ということです。当時のユダヤ人たちは、だれもが違った意味で「救い主」を待っていました。だからイエスさまと衝突ことがしばしばでした。イエスさまは「罪」からの「救い主」として十字架への道を歩み続けられました。それは血と涙に溢れておられたばかりではなく、十字架の死への道でもありました。それを受けることなくして、今のパウロやテモテはなかったのです。
3 キリスト・イエスの苦しみとわたしたち
キリスト・イエスがゲッセマネの園や十字架上で苦しまれたことを、どう見たらいいのでしょうか?そこで私たちのために、どんなに苦しまれなければならなかったかを知らなければ、キリストの十字架も一緒につけられた強盗の十字架と何ら変わらないことになってしまう。
私たちの「キリスト・イエスの僕」「キリスト・イエスの奴隷」であることは、イエスさまにすべての権限を委ねることです。そこには「キリスト無くしては何もできない」というキリストに対する全面的な信頼があるのです。「イエスさまに頼らなくても〇〇はできる」というのであれば、その部分だけがダメになるのではなく、根こそぎダメになってしまうのです。ZERO(ゼロ)かALL(すべて)かです。その中間はないのです。
あるシェークスピアの研究家が「もし、この部屋にシェークスピアが入って来たならば、私たちは感謝のあまり立ち上がって彼を迎えるだろう。しかし、もしイエスさまが来られたならば、聖なる畏れに囲まれ、そこに跪いて、取りすがるか、仰ぎ見るであろう」と言ったという。あなたは、どちら?
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