心の貧しい人のさいわい マタイ 5章3節
こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。
今日読んだ聖書の言はイエスさまが山の上で多くの群衆たちを前に語られた言葉です。ここで主イエスは、幸せな人については語っていません。祝福されている、という。
主イエスは、神様の祝福の中にいる人、神様の祝福にあずかる人たちはどのような人たちかを語られたのです。祝福とは単にいいことがあるということではありません。祝福とは神の愛の中に置かれていることです。
祝福の内容
主イエスここでさいわいなるかな、天国は彼らのものとおっしゃったのです。天国はどの様な場所でしょうか。そこは神様の平和が支配しています。そこには一切の恐れや病や悲しみもない。日々喜びをもって神を賛美する。ただ天国は、単に死んでからいく場所と言うことではない。この地上においても、あなたのいるところを、またはあなたの心を神が支配してくださったら、そこは神の国、天国は始まっている。もしそうだとしたら、しあわせだと思いませんか。神はそのような祝福をあなたにも与えたいと願っておられる。
祝福されている人――心の貧しい人
さいわいな人とは「心の貧しい人」と主イエスは開口一番おっしゃいました。心が貧しいというのは、悲しいことです。格好悪いことです、みじめなことです。
自分の事しか考えられない。いつも自分の心配ばかりしている。何も人に与えることができない。悲しい・・・そういう人は、人からも神様からも嫌われて、見捨てられてしまう。そうだと思う。けれども主イエスはおっしゃいます。さいわいだ、神様に祝福されている。
ここで使われている言葉は、まさに貧しくて、自分でもどうすることもできない、ただ誰かの憐れみにすがるしかない、それくらい貧しいという意味です。
でも、神様は私たちが自分の心の貧しさに気づくときに、そんなあなたに神様の恵みが届くとおっしゃるのです。そんな心の貧しいあなたが神の国に、天国に入るために、神の御支配の中に喜びをもって生きることができるように、イエスさまは私たちの心の汚れ、すべての罪を身代わりに負って十字架で死んでくださいました。まさに、この言葉は誰にでも言える言葉ではない。私たちのために御旨を全うしてくださったお方だからこそ、あなたはさいわいだと権威と責任をもって語ることができるのです。あなたも自分の心の貧しさを認めて、このお方にすがりませんか。
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