手渡された信仰 Iテサロニケ 1章1〜10節
錦織 博義師
主の言葉はあなたがたから出て、ただマケドニヤとアカヤとに響きわたっているばかりではなく、至るところで、神に対するあなたがたの信仰のことが言いひろめられた。(8節)
テサロニケ教会についてパウロは「マケドニアとアカヤにある教会の模範になった」とさえ言っている。その特徴は何であったのか?
1 偶像を捨てて神に立ち帰った
言葉を替えて言うならば、明確な新生経験ということである。入信にはいろいろあると思う。「私はずるずると急がないでやりました」という人もいるだろう。しかし、テサロニケの人たちはその捨て方、神への帰し方、即ち転機がはっきりしていた。
2 生ける神に仕えるようになった
踏み切った後どうするか?偶像は捨てた。神に立ち帰った。その後が大切である。「生ける神に仕えるようになった」。これは現在である。「かつて」の信仰ではだめである。
「生ける真の神に仕える」ということをパウロはローマ人への手紙16章において例示している。この16章には受信人26人挙げられているが、この受信人を七つに分けることができる。
初めに「労苦に苦心」。「一方ならず苦労した〇〇」、「同労者〇〇」。元訳では「多く労せし」「非常に苦労した」「一方ならず労苦した」となっている。
「わたしの同族」というのが六人いた。パウロの同族というのは、ユダヤ人のことである。彼は、特別にユダヤ人に重荷を感じていた。それは彼らが選民でありながら、伝道の妨げや問題を起していたからである。パウロの同族、骨を折って、本当に苦労して救いに導いた人が六人いたのである。
次に「わたしの同労者」というのが四人挙げられている。「同労者」というのは、苦労を共にしてくれた人のことである。
次に、13節「主にあって選ばれたルポスと、彼の母」。これは特別に挙げている。彼のお父さんは「シモン」と言った。イエスさまが十字架を背負いながら坂を登って行かれ、疲れ果てられたとき、たまたま通りかかり無理矢理にイエスさまの十字架を代りに負わされた人である。彼らの家庭に十字架を担わせられて以来救いが臨んだのだ。
3 イエスが、天から下って来られるのを待つ
最後にもう一つ、主のご再臨を待つ信仰。だれかが、来た時、いつでも喜んで迎えられるとは限らない。でも、どんな時でも喜んで迎えられる人がある。それは誰か?「愛する人!」である。
私たちは本当に主を「待っている」だろうか?本当に愛している者だけが、心から「待って」いる。私たちはどうであろうか?本当に主を愛しているか?
あなたの転機は!あなたは生ける真の神に仕えているか?あなたは本当に主の再臨を待っているか?
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