祝福を受け継ぐために Iペテロ 3章8〜9節
悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、
かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、
祝福を受け継ぐためなのである。
さてこの新しい年度の標語は「祝福を受け継ぐため」ということですが、この聖日からしばらくおそらくこのテーマで共に学ばせていただきたいと思っています。
この手紙は十二弟子の一人だった広い意味での小アジア、今で言うトルコに住むキリスト者たちに対して書き送った手紙です。おそらくこの手紙は町から町へと手渡され、また書き写されていったのでしょう。そして各教会で大事に読み継がれていったものと思われます。
さてこのところでペテロは、あなたがたが召されたのは祝福を受け継ぐためと言います。
1 召されたあなた
召されたというのは、「呼ばれた」と言うことです。神さまは私たちの名前を知っていて、私たちを呼んでくださる。私たちが神さまを呼び求めて、神さまに出会ったというよりも、神の方が私たちに近づいてくださって、私たちに声をかけてくださった。まさに教会は「呼び出された者たち」の集いとも言われます。
2 祝福を受けるため
それでは私たちは何のために召されたのでしょうか。それは、祝福を受け継ぐためです。受けて、継ぐ。受けなければ継げない。受けていないのに手渡すことはできません。この受け継ぐという言葉は「相続する」という意味のある言葉です。相続というのは基本的に、親から子へと手渡されていく。まさに神は私たちを子としてくださって、その豊かな祝福を与えて下さる、それを相続する者としてくださる。
それでは祝福とはどういうことでしょうか。それは単に何かいいことがあるとか、いいことがあるような気がするということではありません。
私たちにとって最大の祝福は、主イエスによってあがなわれたということです。私たちは神さまの救いへと呼び出され招かれた。本来、滅んでしまって当たり前の私が主イエスの尊い血によって贖われて神のものとされた。イエスさまに出会って、喜びの中にいれられたのです。
そして主イエスは今も私たちと共にいて、私たちを大きな望みに生きる者としてくださる。
3 祝福を手渡すため
主が私たちを召されたのは単に私がしあわせになるためではありません。私たちは召されています。それは私たちが誰かのために幸いを祈るためです。誰かに主の恵みを手渡すためなのです。
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