祝福を与える大祭司 創世記14章1〜20節
彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。 (ヘブル7章25節)
神さまに祝福の約束をいただいたアブラムでしたが、ロトと違う道を歩むようになります。しかしロトの住んでいたソドムの町が戦いに巻き込まれ、ロトも家族も財産も捕らえられ、持ち去られてしまいました。アブラムはそのニュースを聞きましたときに、訓練された家の子318人を率いて敵を負い、無事にロトとソドムの人々を救出したのでした。
しかし、その時、向こうからひとりの人が出て来た。それはサレムの王。その名はメルキゼデク。メルキゼデクとは「義の王」という意味の名前です。彼が出て来てアブラムを祝福したのでした。
1 祭司の祈りのゆえに
アブラムは知らなければなりませんでした。もう少しで勘違いするところだった。自分は自分の力で勝ったのではない。まさにこの祭司の祈りのゆえに自分は勝つことができたのだ。アブラハムは気づかされたでありましょう。
2 メルキゼデクの祝福
メルキゼデクはアブラムのために何を祈ったでしょうか。メルキゼデクがここで言ったのは、まさに「アブラムよ、あなたに勝利を与えられたのはこのお方なのだ。そのお方があがめられるように。祝福というのは、ただ単に私にいいことがあるようにということではない。私の生涯を見る人たちが、また私の生涯い触れる人たちが神をあがめることができるように、私の神さまがあがめられるようにということなのです。
3 大祭司イエス
ヘブル人への手紙の記者は、このメルキゼデクというのは新約の主イエスの型だと言います。このイエスは他の祭司でしたら神に近づき、神に祈りとりなすときに、動物の血をたずさえて毎年、神にゆるしを求めなければならなかったのですが、ただ一度十字架で血を流し、ご自身の血を神に携えていったのです。私たちを愛して、私たちのために、十字架で血を流してくださったお方が、私のために祝福を祈り、とりなしていてくださる。私たちはこのお方のとりなしのゆえに、勝利の内を歩んで行くことができるのです。
4 ささげものをしたアブラム
アブラムは分捕りものの全部の10分のをささげました。それは、ある意味、このメルキゼデクの仕えていた神に、感謝と服従を誓うということでもあったのです。本来は祝福に値しない私が、神さまの祝福にあずからせていただいた。私たちはこのいと高き神に感謝と信頼をささげさせていただくのです。
|