惜しまない神 創世記 22章1〜19節
あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。 (16−17)
ついに神はアブラハムとサラに男の子を与えてくださいました。それはまさに、「無から有を呼び出された」ということであり、「死んだも同然であったアブラハムたちに息子が与えられたのです。
1 試練を与えられる神
そんな幸福の絶頂にあったアブラハムに神は試練を与えられたのでした。「試練」というと何か大変なこと、困難、つらく悲しいこと・・・と考えます。確かにそうなのですが、同時にそれは私たちの信仰が本物かどうかが試される場であり、私たちの信仰が鍛えられ強められ、神に目が向けられるときでもあるのです。
神が私たちに試練を与えられるときに、それは神様が私たちを疑っておられるとか、意地悪をしておられるとか言うことではなく、神が私たちを愛しておられる徴でもあるのです。
この試練は @神の言に従うかどうか A一番手放したくないものを手放せるかどうか B神を畏れるかどうか C神に信頼するかどうか、の試練でした。
2 イサクを献げたアブラハム
到底、アブラハムに、神の思い、この試練の理由が分かっていたとは思えません。けれども、彼は黙々と神の言に従います。アブラハムは従うことを先延ばしもしません。すぐに従う。私たちもそうです。神に従う時に、ぐずぐずしていたらきっと従えなくなる。アブラハムにそれをさせたのは、アブラハムには神に対する信頼でした。ヘブル書の記者はアブラハムは神を信じていたのだ、たといイサクが死んでも、必ず、生き返させて返してくださる・・・神はイサクを通して祝福の約束がつながって行くとおっしゃったのだから、という語られた神への信仰があったのです。
3 備えられた身代わりの羊
神はイサクの代わりに献げるべき小羊を備えてくださいました。私たちのためには身代わりの雄羊なるイエスが備えられています。主イエスの身がわりの死のゆえに私たちは救われました。まさに、主は私たちの救いのために尊いひとり子を惜しむことなく与えて下さったのです。
私たちを愛し、私たちのためにそのひとり子さえも惜しまないで与えて下さった主イエスに、心から仕え従うお互いでありたいと思います。
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