わたしが道 ヨハネ 42章1〜6節
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。
だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。(6)
主イエスは十字架につけられる前の夜に、こうおっしゃいました。私は道であり、真理であり、命である。私が道だとイエスさまはおっしゃったのです。
1 わたしこそが道
道を示してくれる人は大勢いるかもしれません。しかし、ここで主イエスは、私が道だ、とおっしゃるのです。この「わたし」と言う言葉はとても強い言葉です。それは神が自ら語られるときに用いられる言葉だからです。主イエスはまさに私こそが道とご自身を示されました。神を信じ、またわたしを信じなさい、とさえおっしゃるのです。
2 父につながる道
この道はどこにつながっているのでしょうか。主イエスはおっしゃいました。わたしは道だ、私を通っていくものは父のみもとに行くことができる。
父とは誰でしょうか。それは主イエスの天の父、天の父なる神のことです。それはまさに私たちにとって大きな救いを意味しています。つまり、本来、私たちは罪深くて天の父なる神に近づくことはできないからです。でも主イエスはその父のみもとに私たちを導いてくださるのです。
3 ただ一つの道
主イエスはおっしゃいました。誰でも、私によらなければ・・・他には道はないのです。多くの人たちは言います。真理に至る道はいろいろあるのだ。でも主イエスは言われるのです。私だけが道なのだ。いろいろな道があります。父に到達できる道は主イエスだけなのです。
私たちはある意味、本来、どうしても神に行くことはできなかったのです。しかし、主イエスはまさに人と、神とをつなぐ架け橋となってくださったのです。それが十字架です。十字架はまさに神の側から私たちにかけられた道なのです。道はただ一つと申しあげました。なぜでしょうか。立派な人は大勢いたでしょう。多くの人が道を示してくれたでしょう。しかし、わたしのために十字架にかかり、道になってくださったのはこの方だけだからです。
おわりに・・・ Uターン
時に私たちは言います。いいじゃないか。自分が選んだ道なのだから。でも道は、そこを走っていて気持ちよいかどうかが問題なのではありません。どこかで、私たちは気づいて、Uターンをして、正しい道に立ち帰る必要があります。主イエスはおっしゃいます。私が、私こそが道だ。ダ・ウエイ! 私こそがその道、救いに至る、父なる神に至る道だとおっしゃるのです。
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