良きに変わらせる神 創世記50章15〜21節
あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変わらせて、今日のように多くの民の命を救おうと計られました。 (20)
ヨセフは親許にいるときにはとてもしあわせでした。でも、お兄さんたちに妬まれて、実のお兄さんたちに売り飛ばされてしまいます。
ヨセフはそれからパロ王の前に立つ日までの十三年間非常に苦しい日々を過ごしました。
1 豊かな祝福の神
でもそのような苦難の中でヨセフは経験するのです。神はどんなところにも共にいて、自分を祝福してくださるということを。そして実際、神はヨセフの生涯にそのようなお方でした。普通に考えたらエジプトに外国から連れて来られて奴隷になる・・・それでおしまいです。しかもじぶんの主人に誤解されて獄に入れられる。もう誰にも覚えてもらえない、まさに文字通り忘れられた存在・・・。でも、主はヨセフがどこにいる時にもヨセフに目を止めていてくださり、どこにおいても彼を祝福し、救い出してくださったのです。
2 苦難に意味を与える神
でも、何で自分はこんなに苦労しなければならなかったのだろうか。17歳から30歳と言えば、まさにヨセフの青春時代です。その十三年間をヨセフは奴隷として、また無実の罪を着せられた囚人として過ごすのです。確かに、自分はあそこから救い出された、でもあの苦難の十三年間は何だったのだろうか。自分はなぜ苦難の中を歩まなければならなかったのだろうか。でも、やがてエジプトで宰相をしていた時に、自分の前に何も知らずに食糧を買いに現れた兄弟を見たときに、彼は分かってくる。自分の苦難はこの時のためだったのだ。そして、彼は一族を全部エジプトに呼び寄せて、彼らを救ったのです。
3 悪を良きにかわらせる神
でも、やっぱり自分を売ったのは兄たちではなかったのか。ヨセフには恨みはなかったのだろうか。「確かにお兄さん、お兄さんのしてくれたことはとんでもないことだ、悪だ」。この場面はヨセフがエジプトに売られて40年がたっている。でも神はそれを良きにかわらせてくださった。悪い人もいるだろう。「悪なんてないんだ。何でも祝福だと思いなさい。思い込みなさい」、とは言わない。確かに悪はあるし、悪をたくらむ者はいる。でもたといそうであっても、神はそれをよきに変えてくださる方なのだ、とヨセフは言うのです。まさにヨセフは自分の生涯に主として立っておられるお方を見ていたのです。
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