義に飢え渇くということ マタイ5章7節
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである。彼らは飽き足りるようになるであろう。
ここで、義に飢えかわいている、という言葉に、これではいけない!ということを感じ、それに対して渇きを感じ、おかしいと思い、正義を求める力強さを感じます。
1 「義」とは
義とは、まっすぐという意味のある言葉です。ところが私たちの世界では、正しいことが正しいとされない。曲がっていても、私がまっすぐといえばまっすぐなのだ、というような論理がまかり通ってしまう。そして私たちは、案外、今度は何が正しいかさえも分からなくなってしまうのです。
しかし全てを相対化して、自分が良ければいいんだ、と考え、絶対的な義など否定してしまうような時代にあって、聖書は聖なる神がおられて、このお方はなんでもいいということではなくて、何が正しくまっすぐかを知っておられる。きよい主の御前に正義があるのだと言うのです。
2 義に飢えかわく私
ただ同時に正義があるといわれても、実際には私たちは必ずしも正義が正義として通らないことも知っています。義ではなく、不義がまかり通ってしまうことが何と多いことかと思います。しかし、そのような飢えかわきを覚える中で、主は今、どんなに正義が行われていないように思えても、すべてが精算され、正義が行われる時が来る、とおっしゃるのです。
3 私のうちは義がないことを知っている
さて、私たちは自分の周りに正義がないことを知っていても、神が必ず正義を行ってくださること、義に満ちたらせてくださることを知って、安心します。しかし同時に、私たちは静かにそんな自分を振り返りながら思うのです。自分は正しいと思っている、確かに義を追い求めているかもしれない。でも本当に、私のうちに義はあるのか。聖書は言うのです。あなたのうちに義はあるのか。
実は私たちは自分の周りに義がない!ということを悲しむとともに、自分の中にも義がない、自分の中にも神の栄光を受けることができるような義は住んでいない、持ち合わせていないということに愕然とする。がっかりする。飢えかわく、絶望するのです。
4 飽き足らせてくださる主
私たちは自分自身にも神の正しいさばきが下されたら、自分はひとたまりもないことに気づきます。私は滅びるしかない。しかし、神は私たちのために義を備えてくださった。それは私たちの行いによる義ではなく、信仰によって受ける神の義・神の救いなのです。
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