不思議を行われる神 マルコ 12章1〜12節
家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える。 (10)
主イエスは、何の権威によってこれらのことをするのですかと息巻いて、主イエスのところにやって来た祭司長・律法学者・長老たちにひとつのたとえを語られます。しかし、これは何とも恐ろしい、おどろおどろしいたとえでもありました。それはまさに人間の罪のおどろおどろしさでもあります。しかし、神はそのような人間の罪の醜さを越えて不思議をなさるお方なのです。
1 邪悪な農夫たち
ここにとんでもない農夫たちが登場します。彼らは自分たちの置かれている立場を理解せず、自分の責任を果たそうとしません。自分のことしか考えず、主人を主人とも思っていません。
これは、実はその当時の宗教家たちに対する鋭い批判であり、警告でした。彼らはこのたとえが自分たちに宛てて語られているということを理解していました。しかし、そこで悔い改めようとしない。そして、まさにこのたとえ話の通りに神から遣わされた主イエスを殺してしまうのです。
私たちはこの話を聞いて、ひどい話だと思います。しかし同時に、私たちはこの話を人ごととして終わらせてはいけません。つまり、私たちの中にもそのような恐ろしいものがあるのだということなのです。
2 自分の跡取りを遣わした主人
けれども、対照的に、この主人は何とも忍耐深く、またどこまでも雇い人たちを信頼しています。裏切られても裏切られても、なおも悔い改めを待っておられる主人の姿がここにはあります。そしてついには自分のひとり子をも、その極悪非道な雇い人たちの手にゆだねます。
しかし彼らは、とうとうその一人息子さえも敬うことなく、殺してしまうのです。知ってください、神はそのひとり子を、私たちのところに遣わしてくださいました。しかし、私たちは、その尊い御子を殺してしまったのです。
3 神の逆転劇
ひどい話です。しかし、この極悪非道な悪人たちが勝ち誇っておしまいにはならないのです。
@家作りらが捨てた石・・・捨てられて十字架につけられた主イエスが、その十字架の死によって罪を滅ぼしてしまうという大逆転が起こります。
Aユダヤ人だけでなく、この十字架によって、救いはかえって全世界の全国民のものとして伝えられていくという大逆転が起こったのです。
この神は私たちを救い、今も私たちの生涯に不思議をなさるお方なのです。
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