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真の礼拝をささげる
ピリピ3章1〜8節
錦織 博義 師
兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。 (1)
このピリピ人への手紙は、普通「喜びの手紙」と言われている。ところが、ここでは一転して「警戒しなさい(気をつけなさい)」と言う言葉が3回も出てくる。なぜ、このように言わなければならなかっただろうか。私たちが、信仰の喜びを守り続けるために大切なことは、「正しくない信仰」に惑わされないことである。「信仰の喜び」と言うが、正しい信仰のないところに正しい喜びはない。だから私たちは、いつでも、間違った信仰に陥らないように警戒しなければならない。
「悪い働き人たちを警戒しなさい」と言っているところを見ると、彼らは教会の指導者、教師であったのではないかと考えられる。彼らは何を教えていたのだろうか?彼らは肉体に割礼を受けていること(ユダヤ人)を誇りにしていた。言うならば、信仰生活と言っても「信仰だけ」ではダメだと言う人たちであった。
それでは神の霊によって礼拝する「真の礼拝」とは何だろう。私たちの生活全体をもって礼拝することである。決して心だけではなく、自分の生活全部を献げての礼拝である。心を献げる者は、身体をも献げるのである。
またそれは、イエス・キリストを誇りとする礼拝である。
それは、率直に「キリストを喜ぶ」ことである。ちょうど愛する者と共にある時のように、「キリストにあること」が本当にうれしいのである。
そしてそれは、肉を頼みとしない礼拝である。それは「神以外」のものに頼らないということである。例えば、「割礼を頼みとする」という時、割礼を受けていることに寄り頼み、これを誇るのである。神が人間を救う約束の印として与えられた割礼でさえも、このように「誇り」の材料になる。なぜ「肉」を頼みにしてはならないのだろうか?ここから「罪」が生まれるからである。たとえそれが金であろうと、知識であろうと、体力であうろと、あるいは親切心のようなものであっても、要するに、キリストの恵みなんかなくても、自分は生きていけるというのである。それは結局、神をないがしろにすることである。御子イエス・キリストを十字架につけるほどに、私たちを愛して下さり、救いを提供してくださった神を軽蔑することである。
主にのみ信頼し、喜びをもってまことの礼拝をささげさせていただこう。
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