あなたを負われる主
イザヤ46章1〜4節
わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。(4)
イザヤ書においては、しばしば偶像にすがることの愚かさが語られています。イスラエルの神は目に見えない神でした。人間はしばしば目に見えるものにすがりたいものです。
私たちは偶像の神々を拝むということはないかもしれませんが、やはり目に見えない神に信頼するよりも、目に見える何かにすがりたくなるものです。たとえば、お金だとか、権力者だとか、といった具合です。
イザヤが生きていた時代、バビロンはこれからさらに栄えようとする時代でした。ベルだとかネボがバビロンの神々としてもてはやされていました。しかし、ここでイザヤはその不滅と思われたバビロンが滅んでいくことを予告しています。そしてその時にはベルやネボはバビロンの民を救うことができないばかりか、人々に負ってもらわなければならない・・・。
イスラエルの神は違います。主は目に見えないお方です。そして・・・
1 わたしと名のられるお方
このところで主は非常に力強い調子で「わたし」と語られます。口語訳聖書では4節には二回しか「わたし」という言葉はありませんが、原語では5回、「わたし」という非常に強い言葉が使われています。まさに、偶像ではない、「わたし」なのだと立ち上がられるのです。
2 造られたお方
偶像は人が造った神ですが、このお方は人を造られたお方です。このお方は私たちをはるかに越えたお方なのです。
3 変わらないお方
このお方はいつも変わりません。いつこのお方の所に行っても、変わらないお方としてそこにいてくださるのです。私たちが若い日も、年老いても、このお方は変わりません。
4 救って下さる方
このお方は救ってくださるお方です。私たちを救うことができるのはこのお方だけなのです。
5 負って下さるお方
このお方は私たちを負って下さるお方です。胎にいる時から歳を重ねて白髪となり、やがて主の御前に立つ日まで私たちを責任をもって負って下さる。偶像はいざという時には負ってあげないといけませんが、このお方は私たちを負って下さるのです。
あなたの信じる神はあなたが負ってあげなければならない神ですが、それともあなたを負ってくださる神ですか。
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