傷ついた葦を折らない方
イザヤ42章1-13節
わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。(1〜3)
イザヤは、一度はその罪のゆえに滅んでしまうイスラエルにも回復の時が訪れることを予告していました。そしてその回復は神が遣わされる「しもべ」によって成就するのだです。でも、その「しもべ」とはどんな方なのでしょうか。
1 神の霊に満ち人々に道を示す方
そのお方は人々に道を示します。「道」というのはとても大事です。道は私たちをその目的地に私たちを導いてくれます。ここで「道」と訳されている言葉は正しい裁き・公正、という意味でもあります。主は正義を示してくださるのです。
2 生かす方
その方は叫んだり、怒鳴ったりしません。その方は傷ついた葦を折ることなくほの暗い灯心を消すこともありません。傷ついた葦はすぐにおれ、枯れてしまいます。ほの暗い、消えかかった灯心はふっと吹いたら消えてしまいます。しかし、神がつかわされたしもべはそのようなことはしない。かえって弱い者を顧み、また生かしてくださるお方なのです。
3 あきらめず完成してくださる方
彼は衰えず、落胆せず、ついに道を確立する。神は決して投げ出すことはありません。道を示し、その道・正義が確立するまで責任をもって導いてくださるのです。私たちは自分で自分に落胆することがあります。けれども主はあきらめないのです。このしもべは世界中の人々の希望の光です。
主イエスの生涯を書き残したマタイはある日の出来事に遭遇したときに、このイザヤ書42章の言葉を思い起こしました。その日、主イエスが安息日に会堂に入られると、そこに片手の不自由な人がいました。ところが宗教家たちは主イエスに問いかけました。安息日に人をいやしてもよいのか。けれども、主イエスは彼に向かって、「手を伸ばしなさい」と語られて彼の手を癒してくださいました。主はもう一日待ちなさいとは言いたくなかった。そのことを思い起こしたときに、マタイはこのイザヤ書42章を思い起こし、読み手にもそのことを思い起こさせようとしました。道を示し、生かし、救いを成し遂げてくださる神のしもべ・・・それが主イエスなのです。
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