十字架の恵み
ピリピ2章5〜11節 錦織 博義 師
十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。(Tコリント1:18)
「十字架の恵み」は神のみ霊が、心の中に深くその真理を明らかにして下さらなければ分からない。聖書の中から、十字架にはどういう意味があったかを、学びたいと思う。
あがないの死としての十字架
「あがない」とは、「代価を払って買う」ことである。どうして神はそんなことをされたのかと思う。使徒パウロは「神は愛であられるから」という。理屈ではない。私たちを愛してくださった神が、私たちを救うために罪の代価として、そのひとり子イエス・キリストを手放して下さったのである(ヨハネ3:16、ローマ5:6〜8) 。
神の要求に対する代価の提供
パウロはこの十字架は私たち人類に向かってだけの御業ではなく、神のみ心を満足させたという。「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである」(ローマ10:4)。「律法」とは、神から私たちへの要求である。私たちが神の要求をすべて守ることができたら、私たちは救われる。ところが、私たちには、その律法を守る力がない。
しかし、あのイエスさまは十字架上において、神の要求をすべて満たして下さった。そして、神の要求は肉によらず、み霊によって歩む者の内に全うされるのである。
人に対しての身代り
私たちは神の「呪い」の下にあり、その頭上に神の審判が降されようとしていた。ところが「キリストは私たちのために「呪い」となって、私たちを律法の呪いからあがない出して下さった」と言うのである。私たちの頭上を覆うようにして、キリストがあの十字架を負って下さったのである。私たちは彼にあって義とされ、永遠の命を与えられて神を賛美しながら歩むのである。
十字架の結果としての和解
私たちは、そもそも神に対して敵対関係にあった。しかし、イエス・キリストが仲立ちになって死んで下さったことによって、聖なる神と罪人である私たちが和解することができ、一つになることができた。わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
彼は天地万物を、ご自分と和解させて下さった。まことであり、善であり、美であるお方ご自身であられるお方が、中心になられるとき、世界は何とハーモナイズされた美の中に自らの姿を現して来ることだろう。
私たちもこの驚くべき十字架の恵みに与っている。どうか、この十字架の力を信頼して十字架を見上げて歩んでいく者、十字架を伝えていく者でありたいと思う。
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